LOBELIA


 本当は、隊長がこの女のことを好きだと気付いたから、だから持ちかけた決闘。
 だがその決闘はすぐに勝負がついた。パン、と音がして、全てが終った。
 大神の額に刺さりそうになったロベリアのナイフをマリアの銃弾が反らした。
 マリアの勝ちだった。



 皆が銃声を聞きつけ何事かと駆け寄ると、ロベリアはつまらなそうにマリアの説教を聴いていた。こんな無様な姿を見られるのがいやなのか、ロベリアが悔しそうに舌打ちするのを聞いてマリアは釘をさした。
「もう二度と、馬鹿な真似をしないで」
 その言葉が聞こえなかったように、ロベリアは返事をしなかった。マリアは声を低くして更に言う。
「ロベリア」
 重々しい言い方に、ロベリアはマリアの方を向いた。冷たく静かな光をたたえた目と視線が交わる。
途端、ロベリアは自分の背に何か冷やりとする物を付けられた気になった。腕に鳥肌が立つ。心臓の脈打つ早さが、変わった。
(何だ…?)
 無意識に感じる恐怖。本能がこいつと目を合わせるなと囁く。この勘に、何度命を救われたことか。
(この女、どんなことして生きてきたんだか…)
 ぞくぞくと這い上がってくる恐怖に、しかしどこか楽しさを感じている自分に気付く。隊長が好きな女が果たしてどれだけの人間か。隊長はそれを知っているのか。
 試してみたい。この女と隊長が、どれだけ信頼し合っているのか。
「へぇ…あんた、いい目をしているじゃないか」
 ロベリアは唇の端を軽く上げて言った。マリアは急にそんなことを言い出したロベリアを、不思議そうに眉を寄せて見る。ロベリアはそんなマリアを気にせずに続けた。
「パリの平和を守る大悪党ってのも笑える話だけどさ、トーキョーも似たり寄ったりってとこかねぇ?」
「え?え?」
 エリカが疑問符を上げる。コクリコと花火も分からない顔をしている中で、グリシーヌは何かに気付いたのか、すっと目を細めた。そして大神は厳しい顔になってロベリアに言う。
「ロベリア、やめるんだ」
「何をやめろって?アタシはまだ何も言ってないぜ、隊長?こいつが人殺しなんて、一言も言ってない…と、あーあ、言っちまった」
 口元を抑えて楽しそうに笑うロベリアに、大神はかっとして掴みかかろうとした。
 マリアの、冷静な声がなければ。
「隊長、時間を頂けますか?彼女と話がしたいのですが」
 大神はその静かな声を聞き、思わず頭に血が上った自分を諌めながら頷いた。
 ロベリアは二人の行動を見て心の中で感心していた。
 マリアが人殺しであると確信していたわけではなかったのだが、それが当たっていた自分の勘と、この二人の関係に。
 マリアのことを知っていてもなお大神がマリアのことを愛しているというのは不思議だった。
「ロベリア、ついて来て」
 マリアは冷静な声のまま言った。ロベリアは面倒なのかマリアについて行くのを渋ったが、大神にも促されて仕方なく歩き出した。
 残された大神は、張り詰めた空気の中で自分を見ている四人に、安心させようととりあえずは振り向いて笑顔を向けた。残念ながら、多少引き攣ってはいたが。



「どこ行くんだよ」
 シャノワールのポーチまで歩くと、後ろからロベリアが声をかけた。そういえば、行き先を決めていなかったとマリアは今更のように気付く。
 表には出なかったようだが、マリアも相当焦っていた。今ここにいるメンバー達を不安にさせるのはいけない。そう思って出来るだけうまく演技したつもりだったが。だがそれでも、二人きりになってからの失敗の方が幾分気が楽だった。皆の前でぼろが出ては、結局不安にさせることになるだろうから。
「そうね…どこがいいかしら」
 何も考えていなかったので、直接ロベリアに聞いてみる。どこに行くにせよ、このまま突っ立っているよりはましだろうし、話が出来ればどこだって構わなかった。
「アタシがいい店に連れてってやるよ」
 そう言ってロベリアが向かった先は、彼女の行き付けのバーだった。
 まだ昼だというのに、店内は場所のせいか照明のせいか薄暗く、柄の悪そうな男が七八人、端にある丸テーブルで飲んでいた。カウンターの奥に座ってグラスを磨いている店主らしき男は、二人が入ってくると立ちあがって一本ボトルを取り出した。なるほど、確かによく来ているらしいとマリアは思った。自分がニューヨークにいたころも、馴染みの店ではすぐにウォッカが出されたものだ。
「昼から酒を?」
 マリアが言うと、ロベリアは軽く笑ってカウンターの椅子に腰掛けた。マリアに隣に座るよう言って、酒を頼む。
「少しにすればいいだろ。あんたの分も奢ってやるから固いこと言うなって。同じのでいいか?」
「結構よ。ジュースを貰える?」
 ロベリアが嘲笑する前に、丸テーブルの方から笑いが零れた。マリアがそちらを見ると、男の一人がグラスを傾けながら言った。
「美人のおねーさん、ここにゃ酒しかないぜ?他のもんが欲しいなら、俺と一緒にいいトコ行くか?」
 連れの男が笑うのをマリアは無視した。仕方ない、というふうにマリアはため息をつき一番軽い酒をお願いしますとマスターに言った。マスターは飲まなくても構わないと言ってくれたが、ここにいるのに飲まないのは気が引けた。
 マスターが選んだ酒の名前を聞き、ロベリアは鼻で笑った。
「酒が飲めないのか?そりゃこんなとこ連れて来て悪かったな」
 マリアは言い返さなかった。飲もうと思えばアルコール度が高い酒だって飲める。酔わないという自信もある。が、何かあった時に万が一足元がおぼつかないなどということがあっては危険だと思った。特に、この女が目の前にいる今の状況では。
 何も言い返さないマリアに、ロベリアは図星だと思ったのかまた笑ってグラスに酒を注いだ。
「で、何を話したいんだい?アタシをわざわざ連れ出したんだ、つまらない話じゃないだろうね?」
 ロベリアは言いながらグラスを傾けた。マリアは少し間を置いて、それから口を開く。
「どうして、気付いたの?」
 主語が抜けている文章だったが、ロベリアはもちろん何を指しているのか気付いた。しかし、少しからかってやろうと惚けて返す。
「何に気付いたって?」
 わざとらしいロベリアの言い方に思わずマリアはきっと睨みつけた。が、ロベリアは気にしたふうもなくにやにやと笑っている。
 マリアは諦めて視線をグラスに下ろし、小さく呟いた。
「人殺しだって」
 ロベリアは楽しそうに返す。
「やっぱりそうなのか。そりゃあんたの目を見れば分かるさ」
「目?」
 マリアがまたロベリアの方を向くと、ロベリアは素早くマリアの頬を手で挟むとじっと瞳を見た。片手だけ離し、美しい金の髪をかき上げると隠されていた左目も覗き込む。マリアは手を払おうかとも考えたがロベリアの瞳が真剣なので持ち上げた手を下ろした。
「綺麗な色だ…淡いグリーンは優しいイメージがある。青よりよっぽど」
 その言葉が、ロベリア自身を指しているのだろうとマリアは思った。彼女がどんな犯罪を重ねてきたか、巴里に行く前に帝劇(というより米田やかえで、そしてマリアの元といった方が正しいだろう)に送られてきた資料書で既に知っていた。ロベリアの薄い水色をした瞳は深い湖のようで、読むことが出来ない彼女の心をそのまま表しているように思えた。純粋に綺麗だとも思えるけれど、どこか恐ろしい、底の知れない湖。
 ロベリアは言葉を続ける。
「けど、冷たい。殺しをやった奴の目だ。しかも一人や二人じゃないだろ?何十人…下手すりゃ百人以上だ」
 マリアはその言葉を聞いて手を払いのけた。
 ロベリアはグラスを呷った。一気に飲み干すと、また注ぐ。琥珀色の液体がグラスを満たしていくのを見つめたまま、ロベリアは続けた。
「何してたんだい、あんた。“正義の味方”になる前にさ」
「……革命軍にいたわ」
「革命…?どこの生まれだったっけ?」
「ロシアよ」
「ああ…ロシア革命か」
 マリアもグラスに口をつける。乾いた喉に熱い液体が流れ込んだ。
「革命で何人も殺した奴が、平和を守ってるわけだ。ロシアからどうしていきなり日本に?」
「…誘いが来たのよ、日本に来てくれって。それにのったの」
 ロシアから日本の間にニューヨークにも行ったのだが、そのことをわざわざ話す必要はないだろう。その間に重ねた罪も、拭えないほどあるのだが。
「革命を捨てて?」
「……いろいろあったのよ。捨てたわけじゃないわ」
 これは嘘だろうか、とマリアは自問した。ユーリーが死に、あの地を逃げるように去った。結果的には革命を捨てたことになるのではないか。それまで散々敵だからと人を殺し、いやになったら逃げる。そういうふうにとられても何も不思議はない。
「なんで行くことにしたんだ?報酬は金か?あんたはアタシみたいに刑期がある訳じゃないんだろ?」
「違うわ。報酬なんてなかった。住む場所と食事は与えられたけれど、与えられる金は女優業としての給料。敵を倒すということで何か利益を得たことはないわ。……金銭面ではね」
 ロベリアは信じられない、という顔をして尋ねた。
「どうしてそんな条件をのんだんだ?金以外に何か?」
 マリアは緩く首を振った。だがふと口を開く。
「あえて言うなら、安心できる場所と、信頼できる仲間かしら」
 ロベリアはまた驚いた顔をして言った。
「そんなもんの為に?信じられないね、アタシなら絶対やらない」
「下らないかしら」
「ああ、下らないね。あんただってこういう気持ち分かるだろ?」
 同じ目をしているのだから。安心できる場所?信用できる仲間?そんなものはいらない。信用できるのは己と金。
 マリアは少し笑った。ロベリアはそれが気に入らなかったのか少し声を荒げてなんだよと言った。
「ごめんなさい。ただ…貴方と昔の私、少し似ているわ」
 最も大切なものを失った瞬間、全てが無意味なものとなった。世界は灰色で、昔の思い出だけが、触れることの出来ない輝きを持っていると思った。心安らぐ地など必要がない。仲間なんていらない。ただ、堕ちればいい。
「だから尚更分からないんだよ。なんであんたがそうなったのか。あの目を先に知った奴はあんたがこんなふうになったって言ったって信じないと思うぜ?」
「そうかもしれないわね」
 マリアはグラスを傾けた。中身がなくなり、ボトルを手にする。流れる液体を見つめながら静かに続けた。
「私が帝國華撃団に入った理由は誘ってくれた人が私を助けてくれたから。命を助けてくれたということもあるけれど、彼女に精神面でもひどく救われたわ。その頃は……ひどかったから」
 詳しく話す気になれなかった。話す必要もあるまい。
「それから、日本に来て、華撃団に入って…最初は、ただ働いていたわ。敵が出ればそれを倒して、舞台で演技をして。でもまだその頃は、何も変わっていなかった。私はあの目をしていたままだった。共に戦う仲間とも、親しくなろうなんて思わなかったわ」
 ロベリアが相槌をうった。ここまでは彼女でも理解できる行動だったのだろう。その後の変わりようが不思議だというのだから。
「そこに、隊長が来たのよ」
 ロベリアの、グラスを持ち上げようとした手が一瞬止まったのを、マリアは見逃さなかった。だが何事もなかったように続ける。
「最初は気に入らなかったのよ。それまで私が隊長をしていたのに、いきなり新米の海軍兵なんかに任せられるわけがないと思っていたわ。隊長と呼ばないなんて言っていた。けれど、あの人は不思議な人よ。普通の規則なんて関係ないみたいに、自分が正義と思えることを貫いたわ。私達はそれに救われて、感動して、尊敬して…」
「愛してってか?」
 ロベリアが冷ややかな声で言った。マリアが彼女の方を見ると、ロベリアはグラスを傾けて一度に飲み干していた。空になったグラスから唇を離すと、マリアを見つめた。半ば、睨みつけるように。
「下らない。結局男に惚れたからってことだろ?散々人殺ししておいて、好きな奴が出来たから平和を守ります、なんて、笑わせるんじゃないよ。あんたがどんなに変わるだの何だの言ったって、その目は冷たいままじゃないか」
「けれど貴方も変わりたいんでしょう?」
 間髪入れずに帰ってきたマリアの答えに、ロベリアは驚いて目を見開いた。
「な…?」
「どうして私に決闘を持ちかけたの?私が隊長の話をした時に手が止まったのは何故?貴方も隊長が気に掛かっているんでしょう?隊長に、変えて欲し」
「うるさいっ!!」
 マリアの声を遮り、ロベリアは叫ぶように言った。
「アタシはそんなこと思っていない、そんなことどうだっていい。あんたのことを言ってるんだ。あんたが殺人者なのに平和を守って、偽善者ぶるなって言ってるんだよ」
「好きで殺したわけじゃないわ。生きる為に、そうせざるを得なかったのよ」
 その言葉に、ロベリアはかっとして言った。
「生きる為だと?自分を正当化すんのもいい加減にしろよ、お前だって結局何も分かっちゃいないっ!」
 突然激昂して大声を出したロベリアを驚いて見つめるマリア。
「ロベリア…?」
「アタシは…アタシだって…」
 肩が震えていた。それに気付き、ロベリアは荒々しく舌打ちをした。目の前のボトルを取ろうとして空なのに気付くと、もう一本頼もうとする。しかしロベリアはふと思いついたように考え込むと、マリアの方を見てにやりと笑った。
「いいよ、んなことはどうでも。それより勝負しようぜ」
「勝負?」
「アタシが勝ったら、今後アタシのすることに一切口出ししないでもらう。下らない御託も説教もたくさんだ。今すぐ帰ってもらおうか。そして二度と、個人的に隊長と関わりを持つな」
「…私が勝ったら?」
「好きなようにすればいい。アタシを従わせようと首にしようと、マリア、あんたの思った通りにすればいいさ」
 マリアは少し考えた。危険な賭けかもしれない。もしも勝てたらその成果は大きいだろう。けれど、もし負けたら?
「……何の勝負を?」
 ロベリアはその言葉に満足げな笑みを浮かべ、手にしていたグラスをどんとカウンターに置いた。
「飲み比べ」



 結果は想像に難しくないだろう。マリアの圧勝であった。
 ロベリアが飲み比べに指定した酒はウォッカだった。マリアが酒に弱いと信じ、早めに潰そうと思ったのだろう。しかしこれが裏目に出る結果となった。最近はニューヨーク時代に比べ飲酒量はずっと減ったが、飲めなくなった訳ではない。ロベリアのペースに合わせてグラスを重ね、何杯目かでロベリアのペースが段々と落ちても変わらずに飲んでいった。昼間から美女二人が恐ろしいペースで飲むのを、バーの男達は自分が飲むのも忘れて見入っていた。
 やがて、ロベリアはくやしそうに顔を歪め、額に手をあててグラスを置いた。まだ中に入っていたウォッカがちゃぷんと音を立てて揺れた。マリアはそれを横目に見るとすまして言った。
「まだ中に入っているみたいだけど、それでおかわりなの?」
 ロベリアはマリアを睨んだが、言い返すことは出来なかった。負けを否定することが出来ないのもあるが、うまく舌がまわらない気がする。いかにも酔った口調で話すのはいやだった。
「…アタシの、負けだよ」
 どうにかその台詞だけをはっきりと言うと、ロベリアは心底悔しそうにカウンターを叩いた。
「歩ける?シャノワールに戻りましょう」
 マリアがロベリアの肩に手を触れて言った。ロベリアは抵抗せずに立ち上がろうとしたが、自分の体に力が入らないと感じた。足が、誰か他の人間のものになってしまったように遠い。視界もぐらぐらと頼りなく揺れている。どこかへ離れて行く感覚の中、体中が熱いことだけをはっきりと感じることが出来た。
(やばい…)
 意識を取り返そうと体に力を入れようとするが、掌を握ることがやっとだった。目の端に映るマリアの淡い金髪がぼんやりと白く溶けていき、ロベリアは意識を失った。


 急に力を失い前のめりにカウンターへ倒れたロベリアに、マリアは慌てて声をかける。しかし返事はない。
(飲み過ぎね…早くシャノワールへ連れて帰って寝かせた方がいいわ)
 マリアはロベリアをどう連れ帰ろうかしばし考え込んだ。小さい子供ならば背負って帰っても構わないが、ロベリアは自分とほとんど同じくらいの長身だ。マリアはふと何やら思いつき、ポケットに手を入れた。取り出したのは携帯キネマトロンだった。シャノワールを出る前に大神に無言で手渡された物だった。携帯キネマトロンは本来、文章を送られることしか出来ないが、緊急の場合はそれを知らせることが出来る。マリアは巴里に着いた際に物珍しさで教えてもらった方法で緊急事態発生の信号を送った。これで少ししたら誰かが来てくれるはずだ。少し大騒ぎになってしまうかもしれないが、酔い潰れたロベリアをここに置いていく訳にもいかない。
 その時、扉が重い軋みの音を立てて開いた。シャノワールの誰かがここに来たとしては早すぎる気もしたが、もしかしたら近くに出ていたのかもしれない。マリアはそう思って扉を振り返った。
 しかしそこにいたのはマリアの期待とはまったく違う人物だった。薄汚れた服を着た男が三人、既にどこか他の店で飲んできたのか少し顔を赤くしていた。一人はひょろっと背が高く、もうニ人は小太りで、顔も似ていないのできっとただの飲み仲間だろう。なのに、驚くほど似ている部分があった。その目だ。まるで血に餓えたハイエナのように、ぎらぎらと光って獲物を探している。
 マリアは瞬時に危険だと判断した。見ていたことが気付かれないようにそっと向き直るとまだウォッカの入っていたグラスを静かに呷った。危険だからと言って、止まっている訳にはいかない。かと言って大きな動きを取ると、男達の目に留まってしまうからだ。
 しかしそんなマリアの努力は無駄に終った。男達の方から声をかけてきたのだ。
「おねぇちゃん、こんなところで昼から酒を飲むのはいけないねぇ」
 薄汚れたバーに美女が二人、しかもその内一人は酔い潰れている。男達にとっては嬉しい状況だった。にやにやと笑って手を伸ばす痩せた男を、マリアは鋭い瞳で睨みつけた。だが、男は酔いの所為かその眼光の危険に気付かなかった。怖いのを強がっているんだろうと都合よく解釈したのか、下品な笑いを零してマリアの頬に触れようとする。その手を払いのけると、男は不機嫌な顔になってもう一度手を伸ばしてきた。頬に触れた男の手はごつごつとしていて、酒を零したのか濡れていた。騒ぎを起こす訳にはいくまいと、マリアはそれでも動かなかった。だが男の顔が近寄ってくるのを感じ、マリアはその頬を強く叩いた。
「てめぇ、何しやがる!」
 いきり立った男はマリアの胸倉取ろうとする。マリアは男が触れる寸前に懐に手を入れると、エンフィールドを素早く男の額につきつけた。
「帰りなさい。さもなくば撃つわ。偽物だと思うのなら、私に触れればいい」
 額に感じる冷たい銃口に、男は冷や汗が頬を伝うのを感じた。静かに両手をあげると、後退りする。
「こ、殺さないでくれ」
「出て行って」
 マリアに言われ、男は逃げるように店を飛び出した。
 光景にぼうっとしていた男達だったが、逃げた男が扉を勢いよく閉めた音で我に返った。連れの二人は酔いが覚めたのか真剣な眼差しでマリアを睨みつけ、店にいた男達は騒ぎになるのを楽しそうに待っている。どうせなら、参戦しようという面持ちで。
「お前、見かけない顔だな。どこから来た?」
 男の一人が緊迫して言う。マリアは銃を持ったまま静かに答えた。
「あなたに言う必要はないわ。私達に構わないで」
「なんだと…?」
 男の一人が懐に手を入れた。取り出したのは…いや、それが見える前にマリアは男に銃を向けた。
「動かないで」
 男は顔を歪めた。が、にやりと不敵に笑って見せた。マリアがそれを不信に思った瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
 ナイフが投げられたんだと気付くのに時間を要した。飛んできた方向を見れば、もとより店にいた男達が笑っていた。生温い液体が頬を伝っている。マリアが頬を拭うと手の甲が赤く汚れていた。
「祭りだ、騒ごうぜ兄弟!」
 男が大声で言うと、店内にいた、マスターを除く男全員が口々に歓声を上げ色めいた。そして男は懐に入れていた手を出す。取り出したのは、どこで手に入れたのか小型の銃だった。少しも改良が施されていない、恐らくはまだ使ったこともないのだろう。だが手に合わなくても撃てるものだ。そして、撃たれたら。
 マリアは自分に向かってじりじりと圧迫感が詰め寄ってくるのを感じた。
 しかしその時、天の助けというに相応しいタイミングで店の扉が開けられた。
「マリア!」
「……隊長!」
 右手に日本刀を持って現れた黒髪の青年に、マリアは嬉しそうに声をあげた。
 大神は頷き返すと、割れた酒ビンを振りかざして襲いかかってきた男に素早く刀を抜いた。男は目を寄せ、鼻先すんでのところで止まった鋭利な刃を見つめた。
「帰れ」
 大神が低く言うと、男は叫び声を上げて店を出て行った。
 大神が現れた瞬間、マリアは勝利を確信した。大神がいてくれれば、どんな相手がいても負ける気がしなかった。
 マリアは銃を握り直した。素早く店内に目を走らせる。すると、大神から離れた所にいる薄汚れた金髪の男が銃を構えようとしているのが見えた。その視線の先にいる人物は定かではない。混乱して無闇に発砲するようにも思えた。
 銃を使おうと撃鉄に指をかけるマリアだったが、ここで銃を使った場合多かれ少なかれ店に損害が出るのではないか。マスターに迷惑をかける訳にはいかない。躊躇っているマリアにマスターが他人事を見ているかのように静かに声をかけた。
「いいのか?このままだと危ない」
「ここで銃を使っても?多少店内に傷が付くかもしれません」
 マリアの早口での問いに、マスターは簡潔に答えた。
「負けた方、修理費全額支払い」
 マスターの了承を得たマリアは、男の手元を狙って発砲した。上手い具合に銃に当り、男は手の痺れで銃を手落した。マスターは一言「お見事だ」と呟いて楽しそうに口元を歪ませる。
「そこです!」
「よし!」
 息の合った攻撃に、男達は次々と倒れて行った。マスターはそれを見ながら損害を確認していく。
「脅しの為に撃って割れたガラス窓一枚。騒いでいる内にテーブルから落ちて壊れたグラス十二個。壁のへこみ八個。中身入りの酒樽三個破損に、倒して足が取れたテーブル一つ…と、もう一つ加算」
 いくら余分にとってやろう、などと呟くマスターの視界に酒ビンを持ってこちらにやってくる男が入って来た。マリアはそれに気付いてない様子だ。男はロベリアに向かっている。
「!?」
 マリアは、ロベリアのいる方向からビンの割れる音がして振り返った。そこには男が一人倒れていて、すぐ近くでマスターが割れた酒ビンを持っていた。割れ目から琥珀色の液体がポタポタと垂れている。マリアが驚いてマスターを見ると、彼は小さく笑って言った。
「うちの上得意だ、来てもらわないと収入が減る」
 遠まわしな言い方に、だがマリアは感謝の意を込めて笑顔を返した。振り直って再び参戦するマリアの後ろ姿を見ながら、マスターは一言呟いた。
「高級酒一本大破」
 本当はこの店で最も安い酒であることは、本人と神のみぞ知る、といったところだろうか。







 額に冷たく心地よい感触がして、ロベリアは薄っすらと目を開いた。
「……起こしちゃったかしら」
 触れていたのはマリアの手だった。その手がどけられ、変わりによく絞ったタオルが乗せられた。開いた窓から夕暮れの暖かい光と少し冷えた風が舞い込んできて、ロベリアの頬を柔らかく撫でていく。
「無理して飲んだんでしょう?いきなり倒れるから驚いたのよ?」
 マリアは優しく微笑んで言った。まだくらくらする頭を押えて、ロベリアは起き上がった。背もたれに寄りかかる。軽く吐き気がしたが、抑えることが出来た。
「……ここは?」
「隊長のアパルトマンよ。なかなかの騒ぎだったから、あのままシャノワールに帰るわけにもいかないと思って」
 マリアはそう言うと、立ち上がってキッチンに向かった。大神の部屋と聞いて、ロベリアは辺りを見まわした。こざっぱりした物の少ない部屋だったが、置いてある机の上の写真が目に入った。帝劇の面々が写った、大神の大事な写真だった。ロベリアは、その写真の中で笑っている大神とマリアを見つめる。
「…隊長は?」
「シャノワールに報告に。そろそろ戻るはずだわ」
 戻ってきたマリアの手には薬の包と水が入ったコップが握られていた。
 差し出されたコップを手に取り、しかしロベリアはそれを飲もうとせずにじっと見つめているだけだった。
「どうしたの?」
 マリアが心配そうに尋ねる。ロベリアはしばらく黙っていた。
「あんたは…」
「え?」
「あんたは、どうしてこんなふうに出来るんだ?アタシが言ったことを、忘れたわけじゃないだろ?」」
 人殺しだと。冷たい目のままだと言って。
 マリアは黙り込んだ。考えているようにもみえた。ただ、ロベリアを見つめる瞳に、怒りという感情が含まれていないのは確かだった。
「……私は、確かに人を殺したわ。冷たい目のままだと言われても、仕方がないかもしれない。過去を捨てることは出来ないわ。どんなに変わっても、時が過ぎても、私は確かに罪を犯しているんだもの。…でもね」
 マリアはそこで一息ついた。言葉を整理する。何を言えばいいのか、自分にとって何が本当か。何が大事か。
「大切なものがあるの。守りたいものがあるのよ。その為に、私は戦う。その為なら、何を言われても耐えようと思える。報酬なんてものは必要ないのよ」
 大事なそれが、ただそのままでいてくれれば、傷付いたりしないで、元気でいてくれれば。
 それが何より嬉しいことだから。
 マリアの澄んだ瞳。その、強い決意の宿った表情に、ロベリアは見惚れた。美しいと純粋に思った。
(これが、隊長が惚れた女か…)
 なるほど、いい趣味をしているとロベリアは小さく笑った。



 公演もあるし、長くいるわけにはいかないとマリアが切り出したのはその夕暮れのことだった。
 大神は傍目から分かるくらいに落胆していたが、仕方のないことだとどうにか割り切ると、急いで準備したささやかな送別会を行った。
 最初にきた三人に比べて、ロベリアとマリアの決闘を除けばとりあえず喧嘩もなかったせいか、送別会でも騒ぎが起こることはなかった。別れるのを残念そうにしながらも、世話になったなどと話している面々の中、ロベリアだけは輪に入らずに一人で飲んでいた。昼間に飲み過ぎで倒れたばかりだというのに、彼女の胃は強固なものらしい。
「また飲んでるの?」
 声がして顔を上げると、いつの間に来たのかマリアが立っていた。横の椅子に座ると、こちらは手に持ったジュースを飲んだ。
「ただで飲める酒ならアタシの胃は受け付けるんだよ」
 言い返すとロベリアはグラスを傾けた。中身がアルコール度の低い酒であるらしく、もう何杯目かであるのに酔った感じはしていない。
「そう」
「そうだよ」
 会話が途切れた。二人の間に流れた空気は自然な静寂ではなく、どこかぎこちなかった。
「……アタシは、変わった方がいいのか?」
 静寂を破ってロベリアが独り言のように呟いた。マリアは問うているのかもよくわからない曖昧な問いに、だがしっかりと答える。
「それは貴方の決めることだわ。ただ、変わりたいと思えば変われる。これは確かよ」
「どうして分かる?」
 マリアは微笑んだ。絶対の自信を持って、その言葉を返す。
「貴方の傍には、隊長がいるもの」
 ロベリアは驚いたような瞳でマリアをじっと見つめた。何か可笑しなことを言っただろうかとマリアが心配し始めた時、ロベリアは笑い始めた。
「何か、変なことを言った…?」
 その言葉でますますロベリアは笑う声を大きくした。しばらくして笑い止むと、ロベリアは楽しそうに言った。
「マリア」
「何?」
「今度は、アタシがトーキョーに行くよ。もう一度勝負だ」
 まだ懲りていないらしい。意外と子供っぽいなとマリアは小さく笑うと、何を賭けるのと尋ねてジュースを飲んだ。
「隊長」
 マリアが咳き込んだのは、言うまでもあるまい。
「な…!?」
 目を白黒させながらむせっているマリアを見て、ロベリアはまた笑った。
「駄目か?別に問題ないよな?」
 にやにやと笑って言う。マリアはどうにか落ち着くと、ジト目でロベリアを見た。
「本気で言っているの?」
「もちろん」
 マリアは深いため息をつく。隊長が好意を持たれるのはいいことだと思っている。信頼にも繋がることだ。だが、ここまでいくと…。
 その時、マリアの頭の中に思い出されたことがあった。
「…そういえば、私が勝ったのよね」
「え?」
 マリアは悪戯を思いついた子供のような目で笑った。
「賭け」
「あ……」
「さて、何をしてもらおうかしら」
 ふふ、と笑うマリアを前に、ロベリアはやばい、という顔になる。
 自分から持ちかけた勝負だ、今更取りやめることも出来ない。隊長をあきらめろなどと言われたら、トーキョーでの勝負は不戦敗で終ってしまう。二人が仲良く手を繋いでいようがキスをしようが、ロベリアは何も出来ないのだ。
「そうね、じゃあ…」
 ロベリアの頭の中ではすでに大神とマリアの結婚式が始まっていた。指輪の交換をしている二人を、何もすることが出来ずに歯痒い気持ちでただ見ているだけの自分がそこにいる。
「隊長を、信用して」
「……は?」
 ああ、誓いのキスが…!などと想像の中でのたうち回っていたロベリアは、マリアの言葉で急速に現実に引き戻された。
「隊長を、信じて。守って。大切に思って。それと同じ位、自分のことを気にかけて。そしてできることなら、貴方にも変わって欲しい」
 自分がそうできたことで、苦しみから逃れられたように。どうか、貴方もつらいのなら、彼を信じて。
 マリアは優しい微笑みをロベリアに向けている。静かに、風が舞い込んできた。ふわりと柔らかな布を揺らして、また風は去っていく。
「……心配すんなよ、アタシは自分のことはよーっく気にかけてやるから」
 そう答えたロベリアの頬は、薄っすらと赤く染まっていた。
 素直でないロベリアに、マリアは小さく笑うと席を立った。
「あ、マリア」
 他の人に分かれの挨拶をしようとしたマリアは、立ち止まって振り向いた。
「何?」
 ロベリアも追って立ち上がり、マリアの頬に触れた。投げられたナイフでついたと聞いた傷は白い絆創膏で隠されている。
「これ…悪かったな。アタシのせいだろ?」
「違うわ、説明したでしょう?これは、」
 マリアの言葉は最後まで出なかった。ロベリアがマリアの柔らかな唇に触れたのだ。ただし、その指で。
「ありがとう」
 マリアにやっと聞こえるか聞こえないかの小さな呟きをロベリアは漏らした。マリアはそれをかろうじて耳にする。赤くなった顔を見られまいとして俯くロベリアの頭を、マリアは微笑んで軽く叩いた。
「また、会いましょう。その時は、私から勝負を申し込むわ」
 驚いてロベリアが顔を上げると、マリアは悪戯をしている子供のように笑って続けた。
「隊長をかけて、ね」
「……アタシは、絶対負けないよ」
 同じような笑顔を返して、ロベリアは言った。
 柔らかな夜の風が、劇場内に優しく吹き始めた。



《了》











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