間違いだらけのバースデイ
最初にみんなの先頭に立って俺のところに来たのは、アイリスだった。 「おにいちゃん!あのねあのね!今度の日曜日はマリアの誕生日だから、みんなでパーティーしようって相談したんだよ!」 考えてみれば、マリアの次に誕生日を迎えるのは7月生まれの彼女だ。誕生パーティーの前例をつくるのに積極的なのも当然かと思ったが、 「このあいだは刹那のせいで、マリア、とっても大変だったでしょ?だから、こっそり準備して、びっくりさせてあげるの!きっと喜ぶよね!」 マリアを思いやる気持ちは正直なものらしい。そういうことならもちろん俺もやぶさかではなかった。 「そうだね。いい考えだと思うよ。よし、みんなでやろう!」 「わ〜いやった〜パーティーだ〜!アイリスねえ、ケーキ作りにちょうせんするよ!」 「あたし、腕によりをかけてお料理します!」 「そんじゃあたいも手伝うぜ」 「んま〜山ザルのお粗末なお料理なんてマリアさんのお口に合いますかしら〜」 「ぁんだとお〜!?」 「まあまあお二人はん、今回はストッパーのマリアはん抜きなんやから、仲良うたのんまっせ」 「今度の日曜が楽しみだね、ジャンポール!」 「楽しそうね。何かお祝い事の計画かしら?」 「マっ、マリア!!??」 全員がぎょっと飛び上がった。いつのまにか、マリアが背後に立っていたのだ。 「な、なんでもないんだよ!」 「そうです!マリアさんには関係ないお話なんです。いえほんとは関係あるんですけど、あっ、その、あわわ…」 「さくらさんたら何を口走ってるんですの!ちょっとこっちへいらっしゃいな!」 「あ、アイリスおべんきょうしなきゃ!」 「ほなそーゆーことで!」 「じゃあな、マリア!」 みんながてんでんばらばら散っていったあとに、マリアがぽつんと残された。 気になって、逃げたふりをして物陰からそっと見ていると、彼女はやがてふうっと細く溜息をついた。 「どうして私を仲間に入れてくれないのかしら…」 寂しそうな横顔に俺の良心が疼いた。しかし、せっかくみんなでマリアをびっくりさせようとしているのに、教えるわけにもいかない。困ったな。 「来週の日曜って何の日だったかしら…?」 小首を傾げて、マリアはサロンの壁のカレンダーを眺めていた。びくびくしながら様子をうかがっていると、彼女はやがて、あっという形に口を開けた。 ああ、気づかれちゃったか。でもこれでマリアも喜ぶだろう。 だが、予想に反して、マリアはますますむっつりした表情になった。 「…いいわ。私は私で考えるから」 謎の言葉を残し、マリアはすたすたと去っていってしまった。 「なんだか、マリアが自分は自分で考えるって言ってたけど…」 翌日、夕食後にこっそり打ち合わせに集まったみんなに、俺はきのうの話をした。 「それって、自分の誕生祝いを自分でやっちゃうってことでしょうか」 「うひゃあ〜そりゃわびしいなあ。でもマリアならやりかねないなあ…」 「カンナはんそりゃえらい身も蓋もない言われようや」 「せっかくわたくしたちがパーティを開いてさしあげようというのに、それでは意味がありませんわ」 「お兄ちゃん、日曜日はマリアを見張っててね。マリアが自分でケーキ買っちゃったりしないように!お願いだよ?」 ケーキ担当で張り切っているアイリスが真剣な顔で念を押すので、俺はあわててうなずいた。 はたして6月19日の日曜日。昼食もそこそこに各人が準備にかかったところだった。俺はロビーの階段を降りていくマリアを見かけて呼び止めた。 「やあ、マリア、出かけるのかい?」 「はい。ちょっと三越デパートまで買い物に」 まさかとは思ったが、彼女の答えに俺は呻きをこらえた。やっぱりマリアは自分でケーキを買うのか?これはなんとしても阻止せねば。 「い、いやあ奇遇だね。俺もこれから三越に買い物に行くんだよ。一緒に行ってもいいかな?」 「そうですか。ではご一緒に」 マリアの答えは素っ気ないが、迷惑がっているようでもない。これ幸いと俺は彼女を追って階段を駆け下りた。 初夏の穏やかな日差しのもと、銀座の大通りは休日のにぎわいを見せている。その中を、密かに気になる女性であるマリアと肩を並べて歩くのは、なんだかちょっとしたデートみたいで楽しかった。ちょうどいい、俺もマリアに何かプレゼントを買おう。俺は財布の中身を頭の中で確認し、一人うなずいた。何がいいだろうか。 …いや、浮かれてる場合じゃない。まずは、何と言ってマリアの買い物を阻止したものか考えねば。 「マリアは何を買うんだい?」 さりげなく聞いてみると、彼女は、ちょっと拗ねたような、楽しいような、複雑な澄まし顔で答えた。 「プレゼント、です」 …やっぱり。自分で自分にプレゼントを買って一人でお祝いをするつもりなんだな。他の人間ならいざ知らず、マリアがそんなことをしたら。 あの、かっちり整頓された部屋で。 この低い声で「はっぴばーすで〜つ〜ゆ〜」と歌って。 赤い手袋がぱちぱちとソロの拍手を奏で…。 …暗い。暗すぎるよマリア。俺はそっと目頭を押さえた。せっかくみんなが君のためにパーティーの準備をしてるのに。 「マリア…その…みんなは…本当は君のこと…」 俺がもぐもぐ言ってると、彼女はつんとしてそっぽを向いた。 「みんな私が反対するとでも思ったんでしょうね。どうせ私は堅苦しくて口うるさいです」 「そんな…そうじゃなくてね」 「いいんです。私は副隊長ですから。隊長がみんなに甘い顔をしすぎる分、私が引き締めないといけないんです」 …やぶへびだ。 しかし、マリアは目立つ。そしてすごい人気だ。 この身長で金髪、帝劇の美貌の男役スタアともなれば、この銀座界隈で知らない者はない。 誰もが振り返る道中を歩いて、ようやくデパートに入ったが、ここでも主に女性の、息を飲むようなざわめきが、俺たちの周囲にさざ波立った。(実はすでに帝劇にもファンからのプレゼントが山を築いているのだが、パーティーの時に一緒に渡そうとマリアの眼につかないよう隠されているのだ。) 当のマリアは気に留めない風で、颯爽とエスカレーターの方に歩いていく。 「隊長の買い物は何階ですか?」 「ああ、ええと…」 時間を稼いだ方がいいだろうか。それでパーティーの時間になったら有無を言わさず帝劇に戻ると。うん、それしかないだろう。 「よければ、先に俺の買い物につきあってくれないかな」 「いいですよ」 あっさりマリアが承諾してくれたのでほっとしながら、俺は文房具売り場のある階へ向かった。 道々何を買おうか考えたあげくようやく決めたのは、万年筆だった。マリアは日記をつけるというし、何より副隊長として書類や報告書を書く仕事も多い。 本当はアクセサリーのようなもっと女性らしいプレゼントにしたいのだが。 なにぶん、相手はマリアだ。下心があるように思われて嫌われでもしたら逆効果だ。もっと付き合いが深くなればその時にきっと… 「私の顔に何かついていますか?」 ちょっと横顔を盗み見ただけなのに、マリアがにらむ。ああ…いったいそれはいつのことやら…。 「何かお薦めの品はあるかい?もしくは、自分ならこれがほしい、とか…」 ちょっと高級な品の並んだ万年筆のショーケースの前で、俺はそれとなくマリアの好みを探ってみた。 「そうですね。万年筆のブランドはパーカーが有名です。今人気があるのは軸がオレンジ色のデュオフォールドですね。もっともかなり高価ですから、国産のスワン社やパイロット社もよい品を出してるのでお薦めですよ」 さすがマリアだ。すらすら出てくるな。確かに、海外の製品は俺の給料がぽんと吹っ飛ぶような値段のものばかりだった。 「じゃあこれにしよう」 俺は素直にマリアの薦めに従って、インク漏れしないという国産品の、軸の配色の美しいものを選んだ。 包んでもらっていると、マリアがふと思いだしたように言った。 「そういえば最近、私の万年筆のインクの出が悪いんです」 「それはよかった!」 言ってからはっと口をつぐんだが、彼女は妙な顔をしていた。 「いや、その、それは大変だね…」 「ちょうどいいから私も買おうかしら」 「だめだよ!」 思わず叫んでまた口を押さえた。マリアは怪訝そうに首をひねっている。まずい。 「ああ、あの、今日はマリアは万年筆は買わない方がいいんだよ」 「なぜですか?」 「その、実は、え〜と、え〜、え、…縁起が悪いんだ!」 「はあ???」 ますますいぶかしげになるマリアに俺は必死だった。 「ええと、俺の士官学校時代の友人で故事に詳しいヤツがいて、古人曰く、梅雨時に万 年筆を買うべからずって…」 「今隊長も買われたじゃないですか」 「あっ、いや、これはその、つまり今日はマリアは万年筆を買うと縁起が悪いって、星占いでも四柱推命でも姓名判断でも…と、とにかく今日はやめておいたほうがいいんだ!」 自分で言っていてバカみたいに聞こえる。これでは、ふざけるなと怒られるのは必須だ。 だが、俺の必死の様相があまりに滑稽だったのか、マリアはくすっと小さく吹き出した。 「…よくわかりませんけど、わかりました。じゃあ今日はやめておきます」 俺はどっと安堵の息を吐いて、額の汗を拭った。 「それでは私の買い物にもつきあってくださいね」 マリアに言われて、まだ時間に余裕があることに気づく。さあ困ったぞ。 「それはいいんだけど…でも…ケーキはやめた方が…」 「ケーキ?なんの話ですか?」 マリアは歩きながら首を傾げた。 「その…プレゼントなんだろ?」 自分で自分に。 「はい。でも甘いものはあまり好みではなさそうですし…それならむしろお酒の方がいいですね」 なるほど。マリアは辛党なのか。メモメモ。プレゼントするならお菓子よりお酒…と。 「ああ、でもちょっと飲み過ぎなようですから、お酒もやめたほうがいいでしょう」 ええっ!?メモ訂正。そうかマリアは酒豪なのか。確かに強そうだ。ウォッカとかぐいぐい飲みそうだな…。 そんなことを考えている間に、マリアは4階の紳士服売り場でエスカレーターを降りた。首をめぐらせて、とあるショーケースに直行する。 「カフスボタンかい?」 「はい。何がいいかと迷ったのですが…今使っているものが古そうだったので…」 ううむ。マリアは男役のスタアだし、服飾品も紳士用なのか。でも、せっかくだから、華やかなドレスや首飾りや、そういった格好もきっと綺麗だと思うんだけどな。 「これ、どう思います?」 マリアが指さしたのは、銀の台に細かい文様が彫金された品だった。ちょっと高めかな?と思ったが、 「マリアがいいんならいいんじゃないか?似合うと思うよ」 俺が言うと、マリアはうれしそうに微笑んだ。 「そうですか?じゃあこれにします」 さてこれで用も済んで、ケーキも買われずにほっとしていると、おもむろにマリアが尋ねてきた。 「隊長も何かプレゼントを用意なさらないんですか?」 俺は耳を疑った。なんとマリアからプレゼントの催促だ!これってもしかして俺は期待されてるんだろうか? 「あ、いやその…実はさっき買ったのがそうなんだ…」 しらばっくれずに言うと、マリアはなるほどという様子で目を輝かせてうなずいた。 「そうだったんですか!さすがは隊長ですね。確かに、書類を書いたりするのによく使いますものね」 「そうそう!そうなんだよマリア!…その…気に入ってくれるかな…」 「ええ、きっと!」 貴重なマリアの笑顔に俺は有頂天になった。 「じゃあ、あの、これ、そんなわけで君に…」 「ほら!ホントにマリア様よ!」 女性の黄色い声に、俺たちは足を止めた。 「きゃ〜っマリア様!」 「本物のマリア様だわ〜っ!」 エスカレーターの下で、女性達が手を振ったり握り込んだりしながらざわめいている。このまま降りていけばもみくちゃにされるのは必須だ。 「隊長、エレベーターで降りましょう」 マリアがきびすを返すと、階下から失望と不満のどよめきが登ってきた。反対側にまわってこちらに上がってくるつもりらしい。 その時、非常口のランプの脇にある、従業員用のエレベーターが目に入った。 「マリア、あっちを使おう」 マリアの手を引いて止めると、彼女もうなずいた。 「そうですね。一般用のエレベーターでは、降りたところで鉢合わせるかもしれません」 二人でばたばたと売り場を駆け抜けた。 何の装飾もなくエレベーターガールもいない、狭くて簡素な箱に乗り込んで、1階を押す。 「怒られるかな」 「事情を話せば許してくれるでしょう」 さすがにマリアはこういうことは慣れっこのようだ。 とりあえずこれで無事に外に出られそうだな。 と安心した矢先だった。 突然、がくん、と体が揺れた。 エレベーターが止まってしまったのだ。 階を示すランプは3階のところで点滅している。 「…動きませんね」 「うん…」 「非常ベルか何かないのでしょうか」 「…ないみたいだね…」 操作盤を隅々まで眺めて、俺は肩をすくめた。 「そのうち動くだろう」 「…そうですね…」 マリアは腕組みし、俺は壁に持たれて待った。 しかし。 待てど暮らせど動かない。いや、実際はほんの数分なのかもしれないが。こういうのはやたら長く感じるものだ。ましてや、マリアと二人っきりなのだ。…それも密室で。 このまま二人でずっと閉じこめられたままだったらどうしよう。誰も気づいてくれなかったら。 (マリア、二人っきりだね。誰も俺たちを邪魔するものはいない…) いやちがう。俺は何を考えてるんだ。 (どうしよう、俺、トイレに行きたくなったんだけど) こっちのほうが深刻だ。いやそうじゃなくて… (奇跡の生還!行方不明の男女発見さる!) バカか俺は。 「…ですね」 「え?あ、な、何だい?」 「困りましたね…あまり遅くなると、みんな心配するでしょう」 さしものマリアも少し不安になってきたようだ。 「そうだ、こう言う時は、天井にある脱出口から外に出るんだ」 そう言って振り仰ぐと、いかにも確かに四角い区切りがあった。だが、ここは荷物も運ぶエレベーターなのか、天井まではかなりの高さである。俺ではちょっと届かなそうだ。 マリアも赤い手袋の指をのばしてみたが、 「いちおう指先は届きますが…押すのはちょっと無理ですね」 背伸びしたかかとを降ろして溜息をついた。ううむ。マリアでもだめか。 「そうだ…」 肩車しよう、と言いそうになって俺は声を飲んだ。さすがに頭がつっかえてしまうし、それ以前に女性に対してはちょっと不埒ではないだろうか。ああでもマリアを肩車できたらすごいだろうな…こう…太腿をぎゅっと抱いて… 「隊長?」 「あっいや俺は純粋に脱出の方法をだね」 「はあ?」 「な、なんでもないよ。…そうだ、俺の背中に乗って押してみてくれないか」 俺は床に手と膝をついた。 「そんな…仮にも上官を踏み台にするなんて…」 「非常事態だ。かまわないさ」 「そ、そうですか…それでは、ちょっと失礼します」 マリアの靴の感触を背中に感じると、ぐんと重みが背にかかってきた。ちょっと腰に来るかなとも思ったが、ここが男の踏ん張りどころだ。巌のようにびくともゆらぐまい。と思った途端だった。 ふいに、また、がくんと箱が揺れた。 「おっと」 「きゃあっ」 バランスを崩したマリアが、俺の背中を踏み外して落ちてきた。 「うわあっ!」 かなりの衝撃だった。俺は思わず瞑った眼を、ようやく開いた。 マリアの顔が目の前にあった。こんなにマリアの顔を間近に見るのは初めてだ。 ああ、なんて綺麗で深い瞳だろう。そして、やわらかそうな、花びらのような唇… 俺は夢でも見ているように顔を近づけた。そして… 「すっ、すみません!」 マリアは俺を突き放すように飛び退いた。 「お怪我はありませんか?」 「ああ、いや、…マリアこそ大丈夫かい?」 なくなってみて初めて、今まで胸の上にあったやわらかな重みに気づいた。なんともやるせない気分になった。 エレベーターが動いていた。ランプの点滅は順番に下がっていき、やがてゆっくりと箱が止まった。 しゅうん、とドアが開く。 「ありゃ、お客さんが乗ってるよ。…あれ?点検作業の日って今日でなかったっけか?」 作業着のおじさんが工具を持って頭をかいていた。 帝劇に戻ったのは、予定していたパーティーの時間ぎりぎりだった。案の定、アイリスがテラスでぶんぶんと手を振っていた。 「お兄ちゃん遅いよ!」 「ああ、ごめんよアイリス。悪かった。…マリア、ちょっと一緒にサロンまで来てくれないか?」 玄関をくぐってマリアを振り返ると、彼女は廊下の奥の支配人室のほうを気にするように言った。 「あの…、米田支配人はどちらですか?」 「ああ、みんなとサロンにいるんじゃないかな」 「ならいいです。行きましょう」 ドアの向こうで、みんなが息をひそめている気配が伝わってくる。マリアは怪訝そうにこちらを振り返ったが、俺もついにやにやして見守った。 マリアの手がドアノブを回す。 と。 パーン!とクラッカーがそろって鳴り、くす玉が割れて紙吹雪が降り落ちてきた。 「マリア(さん)、お誕生日おめでとう!!」 花組のみんな。かすみくん、由里くん、椿ちゃんの3人組に、米田司令とあやめさんもいる。みんなで声を合わせて、拍手の嵐を巻き起こした。 マリアはしばらく呆然と突っ立っていたが、 「ええっ!!??」 突然、似合わない素っ頓狂な声で叫んだ。 「父の日じゃなかったの!?」 「へっ?」 今度は俺たちがぽかんとする番だった。 「父の日?」 「だって…次の日曜は第3日曜だったから…みんなで父の日のお祝いをするんだと…その…近年アメリカで流行ってきてるから…」 口をぱくぱくさせながら、マリアがとぎれがちの調子で言った。 「父って…誰のことだい?」 「そ…それは…」 ちらと横目でうかがった後、マリアは意を決したようにくるりと米田長官のほうに向き直り、さきほどのカフスの箱を差し出した。 「すみません、米田支配人、私のはやとちりで差し出たことになってしまいましたが…」 「お、俺かあ?」 長官はあんぐりと口をあけた。 「はい、その…私、てっきり…みんなで父の日と言えば、米田支配人のことだと…その…支配人は私たち花組の、おと……、ち、…父親のようなものですから…」 真っ赤になってしどろもどろのマリアを、俺はついめずらしげに眺めていた。 「俺が、父親ってか?マリア」 「すっ、すみません!失礼の段は、平に…」 眼鏡の向こうでまん丸になっていた目が、皺に押し寄せられるように細くなった。 「ありがとよ、マリア」 鼻をすする音がした。 「子供のいねえ俺に、おめえがそんなことを言ってくれるなんてなあ…。ああ、おめえたちゃ、みんな、俺のかわいい娘たちだよ。そうとも、俺あ、こんなにいい娘がいて、幸せもんだよなあ、おい…」 「さあ、支配人、開けてみてあげてくださいな」 あやめさんがハンカチを差し出しながら促した。 「おっと、そうだったな……おう、こりゃあ、なんとも綺麗じゃねえか。なんだかもったいなくて使えねえよ」 「そんな…」 マリアは恐縮しながらもうれしそうだった。俺はそんな彼女の様子を見ながら、米田司令の涙は彼女への何よりのプレゼントなのではないかと思った。 ちょっともらい泣き気味のカンナが、湿っぽくなった雰囲気を盛り返すように声をはりあげた。 「じゃあ、マリアの誕生祝いの仕切直しだ。あらためて、マリア、お誕生日おめでとう!」 再び拍手が湧き起こったが、今度はマリアは目に見えて当惑顔になった。あやめさんにむかい、 「あのう」 まるで先生に当てられて答えられない生徒のように言った。 「私はどうすればいいんでしょうか」 「ありがとうって言えばいいのよ。みんながあなたの誕生日をお祝いしてるんだから」 あやめさんが苦笑すると、 「…すみません、私は…」 マリアは記憶をたどるように視線をさまよわせた。 「私は、こんなふうに、誕生日を祝ってもらったことが…なくて…」 みんなはっとした。俺は頭の中でマリアの経歴の記述を思い返した。 失意と貧困の流刑地。戦闘のさなかの革命軍。ニューヨークの暗黒街。 マリアが今日が自分の誕生日とこれっぽっちも気づかなかったのは、それだけ長い間、自分も、他人も、彼女の生まれた日を祝福することなく過ごしてきたからなのだ。 「君をびっくりさせようと、みんなで準備してたんだ。決して君を仲間はずれにしたわけじゃないんだよ」 熱くなった胸のうちを悟られまいと、俺はおどけたように眉を上げてみせた。 マリア、みんなが君を祝福してるよ。君が父と呼んで涙を浮かべて喜ぶ人もいる。 今まで君は厳しい道を歩いてきたのかもしれない。でも、今君は、こんなにあたたかくてキラキラした時間にいるんだ。 そして誰より、何より、俺が。君がこの世に生まれてきてくれたこの日に感謝しよう。こうして君と出会えた奇跡に。 「ありがとう、みんな。うれしいわ…とても…」 永い眠りから覚めたように、マリアは目をしばたたかせた。金色の睫毛がとらえきれなかった涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちてきた。 胸が詰まって苦しいほどだ。ああ、天も人も笑うがいい。俺はこんなにもどうしようもなくマリアが好きだ。 「あ、このくす玉、ウチがつくったんやでえ!」 「ごめんね、マリア、ケーキちょっとスポンジが固くなっちゃったんだ…」 「さあ、早くお座りになってマリアさん。わたくしのとっておきのお茶を入れてさしあげますわ…」 照れ隠しのようにばたばたとみんなが騒ぎ出す中、俺はそっと今日の主役に万年筆の包みを手渡した。 「これは俺からのプレゼントだよ」 マリアは目を見開いて、ようやく何もかも合点がいったようすで、晴れ晴れと微笑んだ。 「ありがとうございます、隊長。大切に使わせていただきます」 互いの勘違いがわかってから思えば、楽しい買い物だった。マリアも同じ事を考えているようで、二人で顔を見合わせてくすくすと笑った。 君のそんな穏やかな笑顔をもっと見たいよ、マリア。 そして、願わくば、いつの日か、君と二人だけで誕生日を祝いたいな…。 「ところで隊長。どうして私がケーキを買うと思ったのですか?」 「いいっ!?いやそれは…俺が言ったんじゃなくて…」 「お兄ちゃんとマリア、何を二人だけでお話ししてるの?」 「あやしいです、大神さん」 「隊長?ちゃんと説明してください」 「ちょっとした間違いなんだ。勘弁してくれ〜っ」
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