香り松茸






「レニらしくないで〜す!こんなのナンセンスもいいとこで〜す!」
 織姫がオーバーアクションに肩をすくめて首を振る傍らで、レニは黙々と木箱を開けていた。賢人機関の特別航空貨物で届いたばかりのものだ。
 機密扱いの札を貼られた箱から出てきたのは、米の袋、昆布、日本酒、醤油、蒸気式炊飯器。箸と茶碗も抜かりない。そして小さな竹の籠。機密とはほど遠いながらも、この巴里では決して手に入らないものばかりだった。
 籠の蓋を、玉手箱を手にした浦島太郎のようにおそるおそる開ける。すると、中には檜葉の青い葉に大切にくるまれた、小振りな松茸が2本入っていた。
 日本からの輸送時間を経て、ちょうどいい具合に胞子の育った、微妙な傘の開き加減になっている。これならきっといい香りが出るだろう。レニはようやく安堵の笑顔を浮かべた。
 貨物の中には、事細かに書かれた松茸ご飯のレシピが入っていた。さくらの字だった。
「米は炊く30分前に洗ってざるに上げておく。はじめに汲みおきの水を用意して…すごい。お米の洗い方まで書いてある」
 さくらは事情を知っているのだろうか。ともあれ、遠い海の彼方からの味方の援護を、レニは心強く思った。もっとも、石鹸なんかで洗っちゃダメですよ、という文章には苦笑を禁じ得なかった。
 織姫はまだ横でぶつぶつと文句を言っていた。
「ええっと、床に釘打つとか福助お盆に帰ってこないとかそう言うヤツ…」
「床じゃなくて糠。玄米を精米したときにでる胚芽や種子の粉のこと。それから、覆水盆に返らず。零した水はもとの盆には戻らないという中国の諺だ」
 メモのとおりにボウルに水と昆布を入れながら、レニは淡々と言った。
「そうそう、その糠と盆!私、レニがそんな無駄なことに一生懸命になるの、面白くないで〜す。あんな男もうほっとくといいで〜す!」
 昔馴染みの同僚の声と表情からは、不満と苛立ちに紛れて、一抹の同情が見え隠れしていた。



 それは、口論とも言えないような、他愛ない意見の相違が原因だった。
 招かれたブルーメール邸の食事の席で、高級食材の話になった時のことだ。己のもてなしに絶対の自信を持ったグリシーヌの、トリュフほど香り高い茸は他にないと言う言葉に、気が付いた時には、レニは隊長に松茸をごちそうすると約束していた。
 呆れ果てる織姫と、無理をするなとなだめる大神、そして、その傍らで、半信半疑の様子の大貴族の女当主に向かって、レニは三日の猶予を請うたのだった。

 激戦の末オプスキュールの砲撃をくい止め、避難していた人々がようやく戻り始めた巴里の街は、まだ混乱の様相を残していた。戦乱と平和のせめぎ合いに比べれば、松茸だのトリュフだのがどれほどの問題だろう。それでも、レニにとって、この見知らぬ街の存亡よりも、それは遙かに身近で切実な戦いに感じられた。無論、不謹慎な考えだとは百も承知ながら。

 金銭的な問題は皆無だった。レニにはほとんど使っていない給料が多額にあった。むしろ問題は誰に頼むかだった。
 迷った末、レニはキネマトロンで由里を呼びだした。私物も極めつけの荷物を特別手配しようというのだ。かえでやかすみでは咎められるかもしれないし、椿では心許ない。その点、由里ならば何かあってもうまくごまかして、手際よく望みの物資を発送してくれるだろう。帰国したら事の顛末を根ほり葉ほり聞かれることになるだろうが、そんなことは些末なことだった。



「だいたい職権乱用もいいとこで〜す!ばれたら一大事ですよ〜?」
「別に…。処罰があれば受けるよ」
 レニは平然と答えた。米を洗い終えると、ナイフを取り出し、松茸の石づきを鉛筆を削るように削ぎ落とす。
「たいしておいしくもないキノコご飯のために、なんでそこまでするですか〜!?」
「織姫に食べさせるとは言ってない。安心して」
 その言葉に、織姫はむっとした顔で立ち上がった。
「レニの大馬鹿!こんな馬鹿とは知らなかったで〜す!馬鹿がうつると困るから私はホテルに帰りま〜す!チャオ!」


 馬鹿馬鹿と失敬な。レニは思いながら、水を含ませた布巾で、壊れ物を扱うようにそうっと松茸の土をふき取った。自分はただグリシーヌと論じたように、日本にも高級で香りがよいとされる茸があることを教えてやりたいだけだ。あの、自分と同い年で、他には何一つ似通ったところのない女性に。
 輝く美貌、長い金髪としなやかな体の曲線。そして広大な領地と財産、高貴な家柄、誇りと栄誉に支えられた確固たる自負。彼女に比べたら、自分はあまりにも何も持たない、死に損ないの実験動物に過ぎないのだ。境遇の違いの残酷さに、レニは無意識にきゅっと唇を結んだ。
 でも、それ故にグリシーヌの肩にかかる重圧はどれほどのものだろう。隠された苦しみに気付いて、きっと彼は手を差し伸べずにはいられなかったのだろう。彼は、決して容色や財産で女性を選ぶ人間ではない。だからこそ、きっとこれはもう動かしがたい結果なのだ。
 そう、もう一つだけ彼女との共通点がある。レニは思い至った。それは、この胸の中にある同じ気持ちだ。
 その結果、レニはこうしてシャノワールの厨房の片隅を借りて、こわごわと松茸を水洗いしているのだった。


 一秒違わず30分を数え、レニは蒸気式炊飯器のスイッチを入れた。深呼吸をして意を決し、包丁を握る。
 もう一つの問題はレニの料理の技能だった。彼女の乏しい料理経験といえば、アイリスと作ったままごとのようなケーキやクッキーくらいだった。ただ松茸を切るだけ。それだけの事に、レニは戦地に赴くよりも遙かに緊張をおぼえた。代わりの松茸はない。失敗は許されないのだ。
「松茸は長さを半分に切ってから、3ミリの厚さで縦に薄切りにする…」
 メモを読み上げると、レニは定規を取り出して、3ミリを計って慎重に切った。
 織姫がいなくなっていてよかったと思った。人が見たら笑うかもしれない。だが、自分の未熟な調理の腕を補うために、レニにはこんなことしかできなかった。

「松茸は長く煮ると香りが飛びやすいので、途中で蓋を開けてみて、沸騰していたら、松茸を散らして加熱し…」
 ここが勝負どころだ。なんとしても香りのよいおいしい松茸ご飯をつくらなくては。
 丹念に正確に裁断された、茶色い矢印のような松茸の切片を両手に捧げ持ち、レニは引き締まった面もちで調理台のメモの続きに目を走らせた。
「炊き上がったら酒を振り、乾いた布巾をかぶせて蓋をして、10分蒸らせばできあがり…」

 レニは硬直した。
 炊き上がったら。いつ炊き上がったとわかるんだろう。それは何分後なんだろう。何度もメモを読み返す。
 どこにも書いてない。
 どっと心拍数が跳ね上がった。さくらの馬鹿。肝心なところが抜け落ちてる。ボクはどうすればいいんだろう。
 パニックにかられて目眩がした。落ち着け。冷静になるんだ。数分置きに蓋を開けて確かめてみればいい。いや、ご飯は何度も蓋を開けてはいけないとも聞いたことがある。どうしよう。おいしい松茸ご飯ができない。隊長に松茸ご飯を食べさせてあげられない。
 このボクがこんなに冷静さを失うなんて。ここまで出来てるのに。グリシーヌに負ける。どうすればいいんだ。どうすれば…。


 炊飯器を前に立ちつくすレニの背後で、ふいにごとんと物音がした。
「レニのお馬鹿さんはそんなメモだけじゃわからないでしょうから、いいもの持ってきてあげたで〜す!」
 不機嫌もあらわな表情で、織姫が立っていた。キネマトロンの箱を押しやり、くるりと背を向ける。
「これでチェリーさんをたたき起こして聞くがいいで〜す!向こうは真夜中だから怒られても知らないですけどね〜」
 私まで馬鹿がうつったで〜す、とぼやきながら去っていく織姫を、レニは言葉もなく見送った。



 昆布と醤油と日本酒の香りをかすかにまとった、甘い米の匂い。そして、独特の茸の芳香。
 シャノワールのホールのテーブルに座った大神は、盛りつけられた茶碗を前に、深々と息を吸い込んだ。せつないような表情がその顔に浮かぶ。
 傍らで、グリシーヌをはじめとする巴里花組の面々が、そんな大げさな大神の反応を不思議そうに見ていた。
「…いただきます」
 手を合わせて箸を取り、口もとに運ぶのを、レニは固唾を飲んで見守った。大神が、頬を動かして咀嚼しながら、絶え入るようにじっと目を閉じる。

 隊長、ちゃんと栃木産のお米を送ってもらったんだ。隊長の故郷のお米だよ。長い異国生活で、夢に見ることもあったでしょう?たくさん食べて。日本の味だよ。ふるさとの味だよ。
 そんな、安っぽい商標のような言葉が頭の中をぐるぐる回っているのが滑稽で、その上なんだか自分が郷愁にかられたような気持ちになってしまって、レニは涙が出そうだった。
 最高級の松茸を頼んだんだ。ちゃんと正確に3ミリの厚さに切ったんだ。ボクの指も少し切ってしまったけど、松茸の歯触りが生きているはずだ。日本のご飯はおいしいでしょう?なつかしいでしょう?だから…だから…

「…おいしい…」
 大神のつぶやきに、レニは止めていた息をようやくそっと吐いた。
「おいしいよ、レニ。それになんていい香りだろう。今ここでこんなにおいしい松茸ご飯を食べられるなんて、夢のようだ」
 ほうっと溜息をつくと、大神は、幾分すまなそうに、だがまっすぐにレニを見つめて言った。
「…ありがとう。君のまごころに、心から感謝する」



 レニは笑顔を崩さなかった。ただ、目を細めて明るく言った。
「ゆっくり食べてね。おかわりもあるから」



「レニ」 
 廊下に出ると、グリシーヌが追ってきた。
「隊長の喜ぶ様、しかと見届けた。そなたの言葉に偽りはなかった。この世にはトリュフよりも美味で香りのよい茸があったのだな」
 グリシーヌは朗らかに言った。
「この状況下で、日本の食材を取り寄せたそなたの労苦と、隊長に至高のもてなしを用意した心意気に、わたくしは敬意を表する」
 レニの勝利を認めるグリシーヌの言葉だった。
 レニは心の底からうれしかった。無茶で不利な戦いを挑んでしまったけれど、どうしても勝ちたかったのだ。たとえグリシーヌにとってはどうでもいいようなささやかな勝利でも。他のすべてはどうにもならなかったとしても。


「香り松茸、味しめじ…」
 レニはぽつりとつぶやいた。
「なんだ?それは」
「日本にある言葉だよ。茸の香りは松茸に勝るものはないという意味だ」
 そこには、高級な松茸を食べられない負け惜しみの意味も別にあることに、レニは触れなかった。
「でも、香りというのは不思議なもので、民族によってもいい匂いの定義が微妙に異なるらしい。松茸をありがたがるのは日本人だけだとも言う…」
「どういうことだ?」
 小首を傾げるグリシーヌに、レニはふっと笑みを浮かべてみせた。
「つまり、本当はボクにも、松茸の香りの良さなんてわからないんだよ」

 そう言うとレニは、後片付けのために、一人厨房へ帰っていった。







《了》





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