明月夜話





 七月の帝都。もう夏が近いはずなのだが、まだ梅雨を抜けきっていないのか、今日 も一日雨が降り続いた。深い灰色の雲が去っていくのを見送った時刻には、もう空に 眩しい太陽の姿は無く、夜の風にその身をさらす月が優しく透明な光を誰の窓辺にも 運んでいた。

 大帝国劇場。そのなかで、彼女は昼間閉め切っていた自室の空気を入れ替えるため に、そのしなやかに伸びた腕で飾り気の無いシンプルなカーテンを横にずらし、窓を 開けようとしていた。やわらかな月明かりを自然に受け取るために明かりを消した部 屋が、空から降りてきた光に満たされていく。
 細く滑らかな指先が鍵に触れ、そしてそっと金具を引き抜いて窓を開ける。する と、雨はあがったとはいえいつもより湿った空気が彼女の頬をなでていった。
 マリア・タチバナ。
 帝都で今流行りの帝国歌劇団・花組。そこの男役・トップをはる彼女は、彫刻のよ うに凛々しく美しい容姿と一流の調律士が音を合わせたような美声を持つ、誰もが羨 むトップスターであった。しかし、今夜の彼女はその美しい顔をなぜか曇らせ、何か を真剣に、深刻に、考えていた。基本的には困っているのだろうが、ふと、笑ってみ たり、途端に顔を真っ赤にしてみたり………。雨あがりの澄んだ空気を感じるために 少し大きく開けた窓。そこから青い夜空に浮かんだ月を眺めながら、マリアは少し複 雑なニュアンスのため息をついてみたりした。

(……今日は……何と言おうか…………)


 同じ月の下、同じ劇場内でもう一人、同じような表情をする女性がいた。
 藤枝かえでである。
 毎晩、この時間になると彼女は途端に落ち着きを無くす。読む訳でもない本をぱら ぱらとめくっているかとおもえば、きちんと片付いているにも関わらず、部屋を片づ けてみたりする………。
 彼女は、待っているのだった。自室であるこの部屋のドアがノックされるのを。そ れも、ただ一人からのノックを。

 来訪者は、いつもなにか公的な報告などを理由にやってくる。それが口実なのは、 もう分かっていた。でも、分かっているからといってもそう言わないのは、今日は何 と言ってくるのかが密かな楽しみでもあったし、楽しい意地悪でもあるからだった。
 考えてきたのであろう口実のつじつまの合わないところをまじめな顔で質問する。 その時の困った顔や慌てた様子が普段の姿からは想像できないほどかわいらしいこ と。それはおそらく、自分だけしか知らないだろう。それは、とてもうれしい優越感 だった。

…………その来訪のために、一昨日はウォッカを、昨日は腕によりをかけてつくった 肴と以前好きだと言っていた銘柄の日本酒を………と、いつも何かを用意する。
 ただ、少しでも長く一緒にいるための、こちらも口実なのだ。
 自分が初恋に心躍らせる少女のようである事に、つい笑ってしまいそうになる時が あるが、そんな自分が楽しくて大好きでもあった。


 しかし、今日はノックの音がまだ聞こえない。自分がはしゃいでいて気づかなかっ たのかとも思い、耳を澄まして待っていても、何も聞こえない。そして、またとりと めのないことをして…………。そんな事を繰り返すのが、もう一時間。時間の経過 が、彼女をどんどん不安にさせているのだ。

(……今夜は……来ないのかしら…………)


「かえでさん………あの……マリアです…………」
マリアは、とても控えめにノックをし、部屋の主にそう告げた。なぜか、とても控え めに。別に誰に聞かれようともかまわないのだが、彼女は自分の名を告げる時も細心 の注意を払った小声になってしまうのだった。あるいは………緊張しているのかもし れない。


「マリアね……どうぞ、開いているわ」
かえでは、心から待ち望んでいた来訪者にそうおだやかに告げると、いつもより更に きれいに片付いた部屋に招き入れた。


 マリアが部屋に入って、用意された椅子に静かに座ったことを確認してから、ドア の鍵をそっと……掛けた。それに気付いたマリアは黙ったまま真っ赤になって、困っ たようにうつむいてしまった。そんな彼女を、最上級の優しさで抱きしめる。そし て、閉じた瞳の上から、触れるようにくちづけた。


 マリアは、何度目かのシルクのようなキスの後、静かに瞳を開けると、いたずらな 微笑みがすぐ近くにあった。今度はマリアのほうから、少し強めに抱きしめた。感情 に素直になれない、臆病な自分を振り払うように。心からの恋しさを、残さず伝える ために。
 少し驚いた様子のかえで。その耳元で、マリアはとても私的な事を「報告」した。
「逢えない時が……辛くなってきました……もう…………」
 言い終えないうちに、ひとしずくの涙が、頬を滑り落ちていった。かえでは、その 通り道をこの上なくやわらかな唇で、少しずつ、少しずつ、消していった。そして、 金色の髪をなだめるように優しく撫でた。欲しかった想いを残さず受け止めるため、 優しく撫でた……。



 ベッドに横たわったマリアの瞳は、遠くの街並みにまで光を降らせる月を見てい た。
 角度を変えた雨上がりの月は、この部屋にもガラス越しに光を届けていた。

 とても、奇麗だった。



《END》






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