迷走の彼方








 頬に氷嚢が乗っている。その冷たさで、マリアは眼を覚ました。
 どのくらい眠っていたのだろう。真っ暗な部屋に月明かりだけが光を投げかけている。首を持ち上げて壁の時計を見ると、もう深夜になろうとしていた。
 手枷ははまったままだったが、服は…この薄い布を服と言えるものならば、着せられていた。
 空腹感は、今は小さな石ころのように固まって、胃の腑の底にころがっている。だが、食べ物の匂いを嗅ぎでもすれば、きっとそれはスポンジをほぐすようにむくむくとふくらんで、体を内側から苛むだろう。遅かれ早かれ、生き延びるために、自分は屈して犬のように皿に口をつけるのだろう。それを思うと、どんよりと体が腐ってしまったような気がして、吐き気がこみ上げた。
 視界の正面に鳥籠があった。最後に見たときに気を失っているようだったレニは、今は起きて座っていた。だがその表情は前にもましてうつろで、格子にぐったりともたれた様は弱々しかった。
「レニ…」
 声を発すると頬骨がずきずきと痛んだ。何をされたの、と聞こうとして、マリアはやめた。聞いてどうなるのだ。こうして寝台につながれた自分に、いったい何がしてやれるというのだ。

 胸と頬、双方の痛みを噛みしめながら、マリアは考えた。なぜカンナは自分を殴ったのか。そうまでして大神に服従しなければならないのだろうか。それとも食事を抜かれるから…。
(ぼろぼろにされればいいんだ)
 暗くすさんだ瞳が睨みつける。
 カンナは本気で、自分を貶めさせようとしているのだろうか。

 いやそんなはずはない。膝にスープを零された、あのときもそうだった。きっと、逃げるという言葉がまずいのだ。自分がここでおとなしくしていなければ、何か悪いことが起きるのだろう。
 カンナはきっと誰かを守ろうとしているのだ。アイリスか、レニか…あるいはこの自分を。
(そういえば隊長も…)
 マリアははっとした。
 大神も決まって、自分が京極を誹謗しようとすると、力づくで黙らせた。やはり大神は、自分たちを守るためにこんな芝居をしているのだろうか。
 だが、まだ素直にそうと信じるには、大神の蛮行は許し難かった。それとも、完膚無きまでに打ちのめされ絶望に瀕していることこそが、自分たちの生存の条件だとでも言うのだろうか。


 ふいにドアが開いて、灯りがつけられた。まぶしさに細めた視界の中央に、大神が入ってきた。
 背後にカンナを従えている。大神の手が何か太い紐のようなものを持っているのに気づき、マリアは瞬時に警戒した。
「大丈夫かい?マリア」
 マリアは身を固くして答えた。
「はい…」
「立てるかい?」
 大神は歩み寄り、マリアの手枷をつなぐ鎖を寝台からほどいた。その際に、ぽんと膝に投げ置かれたのは、黒々ととぐろを巻いた皮の鞭だった。マリアはぎょっとして目を見開いた。
「カンナにはちゃんとお仕置きしなきゃいけないからね。俺の大切なマリアに乱暴して傷つけたんだから、罰を受けるのは当然だよ」
 手枷はそのままに、マリアの手を取って立たせながら、大神はわざとらしい渋顔をしていた。マリアは目をしばたたかせ、大神とカンナを見比べた。
 カンナは黙って壁に手をつき、傷跡の残る背中をさらした。
 その正面に導いて、大神はマリアの手に細く長い革鞭を握らせた。
「君がやるんだよ、マリア。殴られて痛かっただろう?」
 マリアは恐ろしいものに触れてしまったように、鞭を投げ出して後ずさった。

「そんな…いえ、もう平気です。だから…」
 頬の痛みも忘れ、マリアはぱくぱくと口を動かして喘いだ。
「そうはいかないよ。君がやらないなら俺がやるよ」
 大神は鞭を拾い上げると、ピシリと床に打ちつけた。身のすくむような鋭い音だった。
「俺がやるなら手加減はしないよ。カンナに親切と思うなら、君がやった方がいいと思うけどね」
「そんな…そんな…」
 混乱してふるふると頭を振りながら、大神に前に押し出され、マリアは再び鞭の柄を握らされた。
 カンナは何も言わなかった。背中を向けたその姿からは、なんの気配も読みとれない。
 これで打てばどのくらい痛いのだろう。皮膚が裂け、血が出るのだろうか。せっかく治りかけた肌が、また傷に覆われるのか。それでも大神の手に任せるよりは、確かに自分の方がいくらか加減できるはず…混乱しながら、マリアは手枷がついたままの震える両手で振りかぶった。
 だが、実際にカンナを打擲できるはずがなかった。鞭を取り落として座り込むと、マリアは顔を覆って呻いた。
「いやです…できません…!」
 やれやれ、というように大神がため息をついた。
「カンナ、後で俺がたっぷりお仕置きをしてあげるから。…恨むならマリアを恨むんだね」
 マリアは悲鳴を飲んだ。振り向いたカンナが、本当に、一瞬恨めしげな眼をしたように見えた。
「やめて…!お願い!そんなことやめてください!カンナ…!許して…!」

 動転するマリアを、大神は引き起こし、寝台に向かって押しやった。
「じゃあ君にお仕置きだ、マリア。君は俺の命令を拒んだんだからね」
「え…っ?」
「カンナ、おいで」
 手招きされ、壁から手を離したカンナに、大神は楽しげに言い放った。
「君が、マリアにしてあげるんだよ、カンナ。俺がいつも君にしてあげてるようにね。わかるだろう?」
 マリアは呆然として声も出なかった。カンナは真っ赤になり、そしてこめかみにぴりぴりと青筋をたてた。
「…いいかげんにしろよてめえ…」
 カンナの唇が堪えきれずにつぶやいた。
「なにか言ったかな?カンナ」
 大神は眉をあげてみせた。そして、思い出したように付け加えた。
「そうそう、アイリスは元気だそうだよ」

 途端に、カンナの目の色が変わった。
 カンナは憑かれたようにマリアに向かって突進し、肩を掴んでベッドに押さえつけた。
「か、カンナ…!?」
 マリアの驚きの声を、カンナの唇がぶつかるようにして塞いだ。不器用に、カンナの手が、薄い布の上からマリアの胸を押しつぶす。
「カンナ!やめて…!」
 マリアはもがいた。手枷で思うように動かない腕を振り回し、傷だらけの肩を肘で押し戻そうとした。
 その時、カンナの顔が眼に入った。その表情には害意も何の思惑もなく、ただ必死の様を呈していた。マリアは胸を突かれた。
 この上自分が抵抗すれば、カンナにはどんなにかつらい事だろう。
 マリアはそっと力を抜いて、カンナのするに任せた。何より、大神に触れられるよりも、よほど嫌悪を感じなかった。
 だが、大神はマリアの変化に敏感に気づいた。
「だめだな、カンナ。ぜんぜんマリアがつまらなそうじゃないか。もういいよ、下がって。あとはやっぱり俺がやるよ」
 カンナははっと身をもぎ離した。そして、ほっとしたような、すまなそうな、複雑な顔で唇をひき結んだ。



 だらりと腕を下げて去っていくカンナの背を見送りながら、マリアは思った。
 このまままた寝台につながれていては、何もできない。何もわからない。せめてカンナのように自由に動ければ…。その目線を、大神がシャツを脱ぎながらぬっとさえぎった。
「君にはどんなお仕置きがいいかな。鞭なんかでその綺麗な肌に傷をつけたくないし…やっぱり君にはお仕置きするより、かわいがってあげる方がいいな」
 にやにやと笑う顔が、視界いっぱいに近づいてきた。
「君が恥ずかしくてたまらないようなことをたくさんしてあげようか…それとも、カンナのお仕置きをじっくり見学するのとどっちがいいかい?」
 絶句し、取り乱しそうになって、マリアは深呼吸した。うろたえているばかりではだめだ。息を整えながら、マリアはおそるおそるという風を装い、言った。
「あの…お願いです」
 裸になって今にものしかかろうとする大神を、精一杯身を縮め、怯えて疲れ果てたようにうなだれて、上目遣いに見上げた。
「これをはずしてもらえませんか…?…痛くて、重くて…」
 血の滲む擦り傷が見えるように、手首を差し出した。
「逃げたり…しませんから…ちゃんと言うことを聞きますから…」

「いいよ」
 あっさりと大神が言った。
「君が自ら、本心から俺を愛してくれるならね」
 マリアは意味がわからず、ぽかんとした。
「君は女優だ。演技ができる。嘘がつける。今してるようにね」
 マリアの表情がこわばるのを見て、大神は甘やかすような笑みをうかべた。
「君の愛が欲しい。演技ではなく、行為だけでもなく。真実の言葉で、俺を愛してくれよ。それができるなら…」
 立ち上がり、机の引き出しから小さな鍵を取って戻ると、やさしげにマリアの手をとった。鍵穴に差し入れて回すと、がちゃりと重い音をたてて枷がはずれた。
 思いがけないほどの開放感に、マリアがしみじみと手首をさする。その指先を、大神が握った。
「君の愛を俺に見せてくれよ。俺を愛してくれ。できるかい?」

「隊長…」
 思わず口をついて出た言葉のなつかしさに、マリアは胸を塞がれた。大神は眼を細めた。
「…いいよ。今だけ、俺を隊長と呼んでもいい。昔のようにね」
 大神は、寝台の背にもたれて、くつろいだ様子で脚を投げ出していた。
「さあ、マリア」






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