>

夢魔〜怨望編〜



天王おみつ・山崎あやめ


 雨に濡れたせいだろうか。
 からだのだるさを感じて、マリアは早めに寝ることにした。なんだか熱っぽいような気もする。
 大神と一本の傘をわけあったのは楽しい出来ごとだったが、強風にあおられた横殴りの雨には、傘などものの役にも立たず、すっかりびしょぬれになってしまった。
 冷えた体をあたためようと風呂にまで入ったのだが、逆効果だったろうか。妙に肩のあたりが重いうえに、神経が落ち着かない。誰かに見られているような錯覚すら覚える。何度も振り向いて誰もいないことを確認しながら、マリアは服を脱いだ。
 暖かくして寝た方がよいだろうかと迷いつつ、肌にまといつくような蒸し暑さを感じて、いつも通り素肌のままシーツの間に体を滑らせる。窓の外では、この季節に特有の暴風雨が吹き荒れていた。ひゅうひゅうとすすりなくような風の音と、窓ガラスに打ちつける機関銃掃射のような雨垂れが、マリアの耳を苛立たせた。
 寝苦しい夜になりそうだった。

 じっとりと寝汗をかきながらも、ふと悪寒を感じて、マリアはまどろみから覚めた。
 五感が警告を発していた。何か、いる。何か禍々しいものが身近に迫っている。
 枕の下のエンフイールドの感触を確かめ、そっと手をのばそうとしたマリアは、体がまったく動かないのに気づいた。胸を抑えられたように息苦しく、指一本動かすことができない。全身がベッドに縫いつけられたかのようだ。金縛り。日本語ではそう言ったはずだ。

(マリア…)
くぐもった呼びかけに、息を飲んだ。
(会いたかったよ…)
声とも、こだまともつかぬ、闇の深淵から響いてくる、聞き覚えのある声に、マリアは耳を疑い、視線を声のする方へと移す。金縛りの中で、体は動かないが視線だけは自在だった。しかし目を懲らしても薄暗い部屋の中が目に入るだけで、声のみが部屋に広がる。この声は・・・。
(隊長?!)
 自分の声は出なかった。唇だけが言葉を発しようともがき、虚しく吐き出される息だけが空を切る。その唇にそっと触れる物があった。それは、唇をいとおしげになぞるように触れていくと、前髪を優しく梳き、そして右の耳朶を撫で、首筋を滑り降りた後、鎖骨の窪みへと移っていった。
 忘れもしない、使い古された手袋の、あの肌触り。かじかんだ頬にいつも触れ、勇気づけてくれた、あの手。
(綺麗になったね…マリア…。誰がおまえをそんなに綺麗にしたんだ…?)
(どんな男が、子供だったおまえを、女に変えたんだ…?)
その手が、胸をおおうシーツの縁にかかり、そろそろと引き下げる。
(俺のものになるはずだったのに…)
 かつえたような声と供に、手は革手袋の感触を肌に残しながら、腹部まで下げられたシーツの下から現れた形の良い膨らみをその掌で包んだ。
(た、隊長? 嘘、違う。彼がこんな。それにもう彼はいない!しっかりするのよ、マリア!)
 マリアが自身に必死に言い聞かせている間にも手は規則的に律動し、膨らみを包みながら徐々に力を込め始める。じきに今度は既に鋭敏に研ぎ澄まされて固く尖り始めた乳首に、指先で刺激を与えだした。 
(…あ!)
 声にならない声で喘ぎ、自由を奪われたまま、感覚だけは意に反して妙に敏感になっていく様を疎ましげに思いながら、マリアの体は実体の見えないものにそのまま翻弄され続けた。冷静に思考を働かせようとしても、体の感覚は既に別の所に飛んでいた。

(…んん)
喉の奥で呻きながら、手のひらは水に突っ込んだかのように、汗でびっしょりと濡れていた。
 額から流れ落ちた汗が、眼に入り、沁みて、暗い視界が淀んだ。眼をしばたたき、再びその姿を捕らえた時、巨大な蛭のような舌が、ぱくりと開いた口の奥から延び、爬虫類のような生臭い腐臭を吐きながら、マリアに近づいてきた。
(マリア、おまえを…悦ばせられるのは俺だけだ…)
 再び聞き覚えのある声が闇から響き、それまで乳首を弄んでいた革手袋のざらついた感触が腹部を撫でながら下方へ移動し始めた。乳首には革手袋のかわりに、冷たい舌の滑った感触が絡みついてきた。
 氷のかけらで肌を撫でられたような感覚に、マリアは身をすくめることもできなかった。その冷たさは容赦なく、痛いほどだった。
 にちゃにちゃと粘液の音を立てながら、右に、左にと捻られる自分の胸の先を、マリアは悪夢のように、顔を背ける事もできずに見つめていた。移動した革手袋の感触は、浮いた腰骨をなぞり、ゆっくりとマリアの太腿の間に滑り込もうとしてきた。
(…い、いや!)
マリアは死にものぐるいで足を閉じようとした。だが、両足は石と化したかのようにびくともしなかった。猫の舌のような、ざらざらと固く毛羽立った感触が、やわらかな部分をかき分けるように押し入っていく。そのまま脚の付け根で蠢いているのを、マリアは気の狂うような恐怖と緊張の中で、なすすべもなく味わっていた。
 次第に掘り起こされ、掻き立てられていく、怖気をともなった劣情の炎。起きていることが何もかも信じられなかった。自分のからだも、目の前にいるものも。その時、ひび割れた眼鏡の黒いガラスが剥がれ落ち、その奥から、ぽっかりと開いた底なしの闇のような眼窩がのぞいた。
 マリアは声もなく絶叫した。

(こんなのはまやかしだ…)
自分の頭の中の悲鳴を聞きながら、渾身の力を振り絞り、マリアは呪縛を払い除けた。
 右手が銃をつかみ、悪夢に向けて撃ち放った。
 耳障りな咆哮とともに悪夢の姿が揺らぎ、どろりとした暗い色の血を滴らせながら、一匹の降魔が窓を破って逃げ去った。
 胸の上からようやく重みが消え去り、マリアは激しい呼吸を繰り返した。
「どうしたんだマリア!」
駆けつける足音とともにドアが開き、大神がとびこんだ。
 見開いた眼に恐怖をたたえて硬直するマリアの様子に、心配そうに歩み寄る。
「マリア…?」
 何が起きていたのか、自分にもはっきりとは説明できなかった。
 どこまでが降魔のまやかしで、どこまでが自分の悪夢なのかわからなかった。
「すみません…悪い夢を見たようです…」
ためらいながら、マリアが答えた。
「お騒がせしました…もう大丈夫です…」

(もう少し、そばにいてください…怖いんです…)
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、俯いた。側にいて欲しい、支えて欲しい。が、きっとその時、自分は今起こった出来事を話さずにはいられなくなる。それは、マリアの口から大神に説明するには、あまりに忌まわしく、耐え難い羞恥だった。

「本当に、大丈夫かい…?」
いたわるような大神の声に、はい、とにっこり微笑んで見せようとした。
 だが、できなかった。
 頬がこわばり、震え、視界が滲んだ。悪夢とはいえ、思い出の中の大切な人に辱められ、自分がいかに深く傷ついているかを思い知った。
 シーツを胸の前で掻き合わせた手を揉み絞り、マリアは嗚咽を噛み殺そうとした。その、細かく震える剥き出しの肩を、大神が守るようにそっと抱いた。
「マリア…無理をしないで…。俺が、ついてるよ…」
やさしく髪を撫でながら囁く大神に、マリアは子供のようにしがみついた。
 マリアが、涙を流すことを許された広い胸。顔を埋めて啜り泣くマリアの肩を、背中を撫でる大神の手の力が、次第に強く、熱くなり、やがて顔を上げさせ、深く口づけた。
 残像とともに肌の上にのこる感触を、拭い取ってほしかった。マリアはためらわずに、その腕に怯えた体を預けた。



「失敗、か…」
廊下のすみで、影山サキは小さく舌打ちをした。
「いいわ、まだあのコがいるから…」
謎めいたつぶやきを残して、サキ……水狐は、嵐の吹き荒れる闇夜に姿を消した。


《了》



[ ホーム ] [ とらんす書院へ ][ 『夢魔〜暗鬼編〜』 ]

inserted by FC2 system