流砂の底(前)




  自分の部屋と同じくらいに見なれた隊長室の天井をあおいで、枕から立ちのぼる大神の匂いを鼻腔いっぱいに吸い込むと、マリアは増々、大神の支配下のもとで自分が自分でなくなっていくような錯覚に捕らわれた。
 昼は二人きりにならぬように帝劇中を逃げ回りながら、夕闇が次第に迫ってくると、いつしか怯える心の片隅で、深夜の静寂の訪れを待ち遠しく思うようになっていた。ものみな寝静まる頃、帝劇の廊下を、大神の足音がマリアを迎えに近づいてくる。音もなくドアを開け、身を固くして眠ったふりをするマリアを、触手のように腕をのばして、搦めとり、抱きすくめる。そのあとで肌の上に繰り広げられる愛撫が、日ごとに濃密になり、異様さを増していくのを恐れながらも、マリアは拒むことができなかった。大神と結ばれて溶けあう瞬間と、暖かい腕を枕に、髪を撫でられながら眠りに落ちる幸福感は、それでもマリアにとって何ものにも換えがたかったのだ。

 深く長い口づけを交わして、互いを確かめあった後、悲しげな白鳥の首のようにしなやかに引き延ばされたマリアの手首を、大神がゆっくりと縛っていく。紐の端がベッドの背を回って固定され、これでもう何をされても抵抗できないのだと思うと、あやしい緊張感と無力感がマリアの心臓をきりきりと苛んだ。両手が自由なら、与えられる刺激にたえられず、反射的に制止しようとして、いつも大神と手の抑え合いになってしまう。大神が存分に愛撫を施すために必要なことなのだろうと、何かおかしいと思いながらも、マリアは自分に言い聞かせ続けた。
 大神の眼をいくら覗き込んでも、微塵の残虐さも、嗜虐に酔う光もない。ただ、切ないまでに満ちあふれた愛が感じられるだけである。その眼を見ると、マリアは何も言えなくなってしまうのだった。

 至高の食物を味わうようにマリアの二の腕を食んでいた大神の唇が、鎖骨を辿って移動する。胸の突起が熱いぬめりに覆われ、その敏感さを知り抜いた舌先が丹念に攻め始めた。肋骨の先がいっせいにざわめくような感覚に、マリアの喉からこらえきれずに声が漏れ、次第に我を忘れていく。
「マリア…気持ちいい…?」
「は…ああっ…」
「どんな感じがするの…?教えてよ…マリア」
「そんな…私…」
「知りたいんだ…言ってみてよ」
執拗に責めながらくりかえされる問いに、やむなくマリアが口籠りながら言葉を探す。
「あの……む、胸の奥が…締めつけられる、みたいに…痛くて…」
「それは、苦しいの…?気持ちいいの…?」
「あ……りょ、両方…です…っ…」
「ふうん…」
納得したように、大神が再びマリアの胸を唇に含み、自分の言葉通りに襲ってくる切ない痛みにマリアは背骨をしならせて耐えた。やがて、双方の胸がすべて溶かしつくされ、飲みほされたと思う頃、大神の指と舌が腹部を下がっていく。
「じゃ、これは…?」
「あ…んっ…く、くすぐったい…です…」
「じゃあ…これと…」
「あっ……!」
「こういうのは…どっちがいい?」
「ああ…っ…」
どんなに強く膝をあわせてもなくならない、大神の手が自由に動けるような足の間の隙間を不思議に思いながら、マリアはただ体を震わせる。
「答えてよ、マリア」
「は…あの…っ…あ…あとの、ほう、です…」
「どんなふうにいいの…?」
「そんな……っ…恥ずかしいです…私っ…もう…」
「教えてくれるまで、このまま続けるよ…」
「あう…っ」
大神の指先が繰り出す愉悦と、喉元を締めつける羞恥で、頭が変になりそうだった。答えようにも、もはや声は言葉にならなかった。
 やがて大神の舌先は、質問するより花心とたわむれることで、マリアの声を引き出すことにしたようだった。それは充分に功をなし、狂おしくシーツの表面を掻いていたマリアの爪先がひくひくと引きつれて、絞め殺さんばかりに大神の頭を挟み込んだ内腿が、力を失い、がくがくと揺れ始めた。
 体の中心が、理性とともに大神の舌にこそげ取られていく。
「た…隊長…っ…もう、許して…おかしく、なりそうです…っ」
「なってごらんよ…どんなふうにおかしくなるのか、俺に見せて…」
 足の間からじわじわと蝕まれ、体液を内臓もろとも吸いあげられ、喰いつくされる餌食の姿が頭をよぎる。胸の奥を無気味な切なさが満たしていくのを感じながら、マリアの後頭部に充満した熱さが、耐え難くなり、弾け飛びそうになった。

 ふと、大神が体を離した。手首をほどいてマリアを解放する。
「隊…長…?」
息も絶え絶えに呼びかけるマリアに、何?というように眉を上げてみせ、大神はただ黙って微笑んでいる。
 これで終わりなのか…?今日は危険日だなどと言った覚えはないし…。そろそろと起き上がりながら、マリアは訝しんだ。
(なぜ…?ちゃんと答えられなかったから…?そんな…)
自由になった両手で肩を抱いて爪をたてながら、自分が今掻きむしりたいのが肩ではなく、腕の内側で抑えている胸なのだと気づいて顎然とする。助けを乞うように大神をあおぎ、言葉を待つ。
「…隊長…あの…」
言い淀むマリアを、大神はやさしく見つめているだけである。乱れた呼吸を整えようと深呼吸を繰り返したが、いっこうに静まる気配がない。喘ぎ疲れて乾ききった喉の奥で、ねっとりと舌が貼りついている。
「隊長……隊長……」
膝が自然とにじり寄っていき、大神にすがりつく。汗ばんだ胸に額をすりつけると、クリーニング液と汗の混じったような、男臭い体臭をかすかに感じ、マリアの脳髄が甘く痺れた。
(早く…)
喉もとで危うく抑えた言葉の、あまりのはしたなさに頬を染めながら、体の内側を舐めあげる熱さに身をよじる。もし熱を眼で見ることができるなら、きっと自分の顔や耳は火を噴いているに違いない。どうしていいかわからなくなり、涙が出そうになった。
 そんなマリアをじっと見ていた大神が、にっこり笑って、ようやく口を開いた。
「…欲しい…?」
「はい…!」
即答した自分に、真っ赤になってたじろぐマリアを見て、大神がぷっと吹き出した。
「マリア…かわいいよ。なんてかわいいんだろう…」
きつく抱きしめ、髪をくしゃくしゃにして頭を撫でる。
 からかわれたのだと気づき、呆然とするマリアを、大神が押し倒し、手首を戒めなおす。
(ひどい…)
大神をなじりたいのに、溶鉱炉のように熱く渦巻いて燃えさかる体の奥が、大神を迎え入れて勝手に歓喜の声をあげていた。
 律動が波となって押し寄せ、高まった。そして、低く沈んだ大神の呻きと、マリアのぽっかりと浮かぶような軽い悲鳴が、重なって、消えた。

 いつも大神の呼吸の方が、先に落ち着きを取り戻す。からからに乾いた唇をそっと合わせ、マリアの額に金色の弧を描く髪を整えながら、大神が静かに起き上がった。机の上の盆に置かれた水さしとコップに眼をやって、苦笑するように息をつく。
「…ごめん、空だった。汲んでくるよ」
ガウンに袖を通し、大神が水さしを持って出ていった。
 ほどいていってくれればいいのに、と、先日の屋根裏での恐怖を思い出し、寝台につながれたままのマリアは一瞬不安を覚えた。が、ここは大神の部屋である。ノックもなしにいきなり誰かが入ってくることもあるまいと、ぼんやりと考え、安心しようとした。
 その途端、裏切るように背後でバタンと窓が開いた。冷たい空気がどっと雪崩れ込み、マリアの頭に曇っていたかすみが瞬時に吹き飛んだ。
 足音が近づく。
「だ、誰っ!?」
悲鳴混じりに叫ぶマリアを、白いスーツの腕が掻き揚げた髪の間から、見覚えのある顔が見下ろした。
「か…加山さん!」
「やあ、マリアさん」
廊下ですれ違ったかのように、加山が気さくに呼びかけた。
「マリアさんは綺麗だなあ。大神が羨ましいよ」
「いやっ!み、見ないで…!」
胸を隠そうにも、縛られた両手が動かない。マリアは必死に体を縮め、背を向けようとした。その肩を加山がいきなり掴み、引き戻した。
 息を飲むマリアの、胸の間の真っ白な広がりに、唇を押しつけ強く吸い上げる。
「やめて…やめてくださいっ…!いや…っ!」
予測もしなかった悪夢のような事態に、何も考えられなくなって、子供のようにただひたすら暴れる。かまわず吸い続ける加山の唇が、鼠の泣くような音をたて、マリアの鼓膜を引っ掻いた。
「助けて…隊長…!」
泣きそうな声で大神の名を呼ぶと、ようやくマリアの言葉を聞いてくれたのか、それ以上のことはせず、加山は体を起こしてマリアの視界から消えた。
 そこへドアが開いて、大神が戻ってきた。
 マリアが思わず安堵に顔を輝かせる。
 だが、水さしの水を注ごうとしながら微笑みかけた大神の眼は、そのまますっと細くなった。
「マリア…それは、何?…俺、つけてないよね」
ほの白く輝いて浮かび上がる双丘の中央に、くっきりと残るうす紅色の染みを、大神がじっと見つめている。
 マリアの背中から、血の気が潮のように引いていった。
「窓が開いてる…誰か来たの?」
「あ…あの…」
糊で固めたように、マリアの舌がこわばった。言ったらどうなるのだろう。大神は怒るだろうか。傷つくだろうか。嫌われるだろうか。何より、なすすべもなく触れられたことが恥ずかしい。頭の中で、壊れたレコードのように思考が空転した。
「誰…?」
問い続ける大神が、動けないマリアの上に屈みこんだ。
「どうして答えないの…?」
 パン!とマリアの頬が鳴った。
 顔の皮膚が破れたのかと思った。大神に頬を打たれた…。じいんと痺れる痛みを、歯の奥で味わいながら、マリアは呆然としていた。
 変わらず答える気配のないマリアに背を向け、大神が机の陰から自分用のビリヤードのキューを取り出した。静かに振り上げ、ぎょっとするマリアのなだらかな腹部に打ち降ろす。
 ピシリ!と肌が鳴って、焼けるような痛みが襲った。咄嗟に唇を噛み締めてこらえながら、マリアはショックと悲しみで声もでなかった。
 ピシリ。ピシリ。
 鋭い音をたてて、打撃が続く。決して耐えられない痛みではないことから、手加減されていることはわかるものの、それがさらに恐ろしくて大神の顔を見ることができない。
「隊長…すみません…隊長…」
ようやく絞り出した涙声にも、大神の反応は冷ややかだった。
「言ってごらん、マリア」
ただ、ゆるやかに詰問と打擲を繰り返す。
「……すみません……許して……」
「どうしても、言えないのかい…?」
大神の声は低く、静かだった。涙を浮かべて震えるマリアを見下ろし、返答を待っている。しばらく黙って、無言の時間を確認した後、マリアの足の間にキューの先を沈めた。
 固い感触が入り口をまさぐり、侵入してこようとするのに、マリアはパニックを起こした。
「加山さんです…!加山さんが窓から入ってきて…いきなり…っ」
押し殺した声を吐き出して、マリアはこらえ切れずに嗚咽をこぼした。

 大神は黙ったままだった。
 足の間の異物が取り除かれたかわりに、眼を瞑って涙を流すマリアの顔に、何か柔らかいものが触れた。慌てて眼を開けたが、視界は闇のままである。また、目隠しをされたのだった。大神が怒っているのか、何をするつもりなのか、マリアにはもう知りようがなくなった。
「隊長…?」
おののくマリアの体に、重みが加えられ、胸に指先が這ってきた。
「た…隊長…」
疲れ切った体を、冷たい手が撫で回し、湿った唇が後を追ってくる。
(冷たい…?)
マリアははっとした。
 何か違和感を感じていた。いつもの大神との、微妙な愛撫の仕種に。何より、手の感触が違うのだ。マリアの体に溶け込んでいくような、あの生暖かい大神の手ではない。
 背後の窓が開いたままなのに気づき、ぞっとする。加山はどこにいったのか。まさか…
「隊長…隊長、そこにいるんですか?隊長…」
返事がない。
「隊長…!これをはずしてくださいっ…!お願い、やめて…!か、加山さんっ…!」

 ふいに、視界が戻った。
「良かった。あんまり気づくのが遅かったら、ちょっと悲しいなって思ってたんだ」
微笑みながら覗き込む大神の背後に、自分にのしかかる加山の姿があった。マリアの恐慌は頂点に達した。何もかも知っていたのか。加山が触れたことも知っていて自分を責めたのか。
 瞬きもできずに見開いた眼が、乾いてひりひりした。
「ああ、なんてやわらかいんだろう…手のひらがむずむずする。一度でいいからこの胸を思いきり触ってみたかったんだ」
凍りついた体をかまわずに弄ぶ加山の手に、マリアは我に返ってもがいた。
「隊長…助けてください…っ。…お願い…やめさせて…!」
「心配しないで、マリア。ちゃんと見ててあげるから」
大神の眼は、慈愛に満ちてすらいる。
 マリアは心底恐ろしいと思った。
「…ちなみに加山、マリアは胸だけじゃなくて耳とか首も弱いぞ。ただし触るだけだからな。マリアは俺のものなんだから」
「酷いなあ大神、俺とおまえの仲じゃないか」
あまりに惨い会話に耳を塞ぎたかったが、それさえも手首の戒めが許さなかった。虚しくねじれるマリアの足の間を、加山の手が這いのぼってくる。
「いやあっ…!やめてっ…!」
「大きな声を出したら、かえでさんに聞こえちゃうよ」
大神が顔を被せてきて、唇を塞ぐ。呻くマリアの歯列を溶かし、舌が入り込んできて悲鳴を搦めとる。
 体の上下から、二人の男に侵入され、内部をかき乱されるおぞましさに、マリアは奈落に落ちていく思いだった。



 いずこへともなく加山が去り、放心して乾いた眼で宙を見つめるマリアの手首を、ようやく大神がほどいた。
「どうだった?マリア。俺とどっちが…」
両手が自由になった瞬間、マリアは涙でベタベタになった顔で、ほつれた金髪を振り乱して跳ね起きると、言いかけた大神の頬を力いっぱい叩いた。
「隊長…あ…あなたは……っ…」
怒りのあまり、唇がぱくぱくと動くばかりで、言葉が続かなかった。
 自分の衣類をかき寄せて引っ掴み、羽織るのももどかしく大神の部屋を飛び出した。数歩の距離を自室に駆け込むと、音を気にする暇もなく乱暴にドアを閉め、明かりもつけずに立ち尽くす。
 悔しさと悲しさで、涙が後から後から溢れて止まらなかった。鍵をかけようと向き直った途端、ぐい、とドアが開いて、大神が入って来た。
「マリア、怒ったの?」
「あ…当たり前です!私は…私はおもちゃじゃありません…!隊長のしたことは、あんまりひどすぎます…!」
どんな言葉で罵っても足りないくらいだった。目の前が真っ赤に曇り、酸素を求めて肩が激しく上下した。
「悪かった…二度としないよ。誓うから、許してくれ」
あっさりと謝って大神が差し出した手を、マリアは汚いもののように払い除けた。
「いやです…!触らないで…!私、もう、隊長がわかりません…」
「愛してるんだ、マリア…」
「嘘です…!こんなの、愛じゃありません…!」
マリアの震える声に、大神が一瞬押し黙った。
「俺が、君を、愛していない、っていうのか…?」
一言ずつ噛み締めるように、大神がゆっくりと区切りながら呟いた。
「毎日、君の事を思わない日はない…いつも、君を見つめて、君の声を聞いて、そばにいて、触れていたい…。そして、二人っきりになったら、思いつく限りのことをして、君を愛したい…」
背後から大神が抱きしめ、振りほどこうとしたマリアの体をがっちりと押さえ込む。
「君が、俺を狂わせるんだ……とても、君なしではいられない…。触れれば触れるほどかつえてくる…まるで麻薬のようだ…」
大神の手が、掻き合わせただけのコートの前から入り込み、腹部の腫れをなぞった。虫の這うような感触に、マリアの肩がぴくりと震える。
「君の肌が、薔薇色に燃えあがって震えるのを、もっと見たい…。どんなに探って確かめても、まだ先があるような気がして…愛しても、愛しても…愛し足りないんだ…」
耳の奥に浸透する大神の声に、崩れそうになる膝に力を込めて、マリアは渾身の力を振り絞り大神から体をもぎ離した。
「やめて…やめてくださいっ!!」
「マリア…」
火を吐くような眼で大神を睨みつけ、マリアはきっぱりと叫んだ。
「もう…もういやです!二度と私に触らないで下さい!二度と!」

 

《後編へ続く》

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