流砂




 カツ…コツ…カツ…。
 近づいてくる足音に気づき、本の背表紙を持つマリアの手がびくりと震えた。足音の主を察して、静かに血の気が引いていく。このまま階段を降りていって、遠ざかってくれればいいが…。
 かすかな期待も虚しく、図書室のドアが開いて、大神の姿が現れた。書架の間を縫って、一番奥の暗がりに、隠れるように立ち尽くすマリアを見つける。
「ここにいたのか、マリア…。探しちゃったよ」
大神がにっこり笑って近づいてくる。
「す…すみません…ちょっと調べたいことがあったもので…」
平静を粧って微笑んでみせるマリアの傍らに立ち、その肩をそっと抱く。
「…なんだか…俺を避けてないか…?この頃、稽古が終わるとすぐにどこかへ行ってしまって…」
「そ、そんなことないです。避けるだなんて…」
見すかされていたことにうろたえながら、マリアは急いで否定した。
「…そう…?なら、いいんだけど…」
大神が安心したように顔を寄せ、マリアの手許を覗き込む。
「何を調べてたの…?」
「ええと、その…」
何の本を手にとっているのかすら、自分でわかっていないことに気づき、返答に窮するマリアの頬に、大神の手が延びた。
「たい…」
唇を塞がれ、声が途絶える。
 マリアの金色の頭を抱き寄せ、さらに深く唇を貪り、舌が絡まりあって、ほどける。そのまま唇をマリアの耳に寄せ、熱い吐息とともに大神が囁きかける。
「…好きだ…マリア…」
それだけのことで、マリアの全身が細波立ち、手のひらの力が抜けて、足もとに題のわからないまま本が落ちた。
 しかし、大神の手が喉元を探ってボタンをはずし始めると、マリアは適中した不安に慌てた。
「た…隊長…待って下さい…」
制止するマリアの手をそっと払い除け、大神はかまわず胸をはだけていく。唇で喉の曲線をたどり、まるい膨らみを寄せてつくられた谷間に顔を埋め、舌先を這わせる。
「やめて…やめてください…こんなところで…誰かに見られたら………お願い…」
乱れる息の合間を縫って、必死に声を紡ぎながら、マリアは哀願した。
「いいじゃないか…」
「いえ、いやです…こんな…昼間から…」
大神の手が腰のあたりをまさぐっているのを止めようとしながら、マリアはほんの三週間ほど前のことを思い出していた。

「俺が主役に選んだのは…マリアです」
まさしく天の声のように響いた大神の言葉に、マリアは瞳がこぼれ落ちるほど眼を見開いた。とても信じられなかった。
(私なんかが…ほんとうに…)
何度も自問しながら、めくるめく喜びをただ噛み締めた。
 それから、夢のような日々が始まった。仲間たちの暖かいサポートの中で、マリアは舞台の稽古に打ち込み、大神もやさしく見守ってくれた。久々にビリヤードに誘われた遊技室で、大神のためらいがちな口づけを受け、幸せに酔った。何度か密かに唇を重ね会い、一緒に見回りをした晩、別れ際に引き止められた。
「マリア…その…、寄って、いかないか…?」
少し赤くなって、それでも正面から真剣なまなざしでマリアを見据える大神に、マリアは魅入られたように、隊長室に入っていった。ぎこちなく肌を合わせ、やがて、大神の厚い胸と逞しい腕に抱かれることに、未知の喜びを見い出した。三日ほど大神が出張で留守にした間などは、眠れぬ夜を身を揉んで過ごし、帰ってきた日の晩には口実を設けて自ら大神の部屋を訪れたりもした。大神はそんなマリアの心中を察してか、強く抱きしめてくれたのだった。
 しかし、いつの頃からか…この数日だろうか、なんとなく、大神を恐れるようになったのは。
 日ごとに激しさを増す大神の愛撫を、辛く思うようになっている自分に気づいたのは。
 自分が未熟なのか、大神が異常なのか、判断のつかないまま、水を吸った真綿に埋もれたような息苦しさに悩まされながら、マリアの周りでただ悪戯に時間が淀んでいた。

 ふいにドアが開いた。
 二人とも一瞬のうちに固まった。
 さくらが入ってきて鼻歌まじりに書架を覗いている。
 抱き合ったまま息をひそめ、本と棚の隙間から見え隠れするさくらの顔を眼の動きだけで追う。
 あっ、という顔をしてさくらが一冊の本を抜き取る。その空間から、さくらの瞳がはっきりと見え、マリアと大神が同時に息を飲んだ。
 しかし、暗がりの奥にまで注意を払うことなく、さくらはそのまま踵をかえして去っていった。ドアが閉まり、足音が遠ざかって、初めて二人は長い吐息を地に這わせた。
「隊長…見つからなかったから良かったようなものの…困ります。こんな姿を誰かに見られたら、舞台にも差し支えます。…勘弁して下さい」
絶好の拒否の状況を得てほっとしながら、溜め息混じりにマリアが訴えた。
「わかったよ…すまなかった…」
大神が素直に引き下がり、襟元を直してくれる。
 マリアの安堵もつかの間、大神が両手で顔を挟みこみ、愛おしげに囁きかける。
「じゃあ、今夜、見回りを一緒にやろうよ。ね」
自分を見つめる大神の眼は、あくまでもやさしく、深い愛に満ちていた。
「…はい…」
マリアはそう答えるしかなかった。
「じゃあ、今夜」
明るい声を残して大神が去ると、マリアは途方にくれたように床に座り込んだ。

 逃れる口実を見つけられないまま、迎えに来た大神とともに深夜の帝劇の凍った廊下を歩いてゆく。とどこおりなく見回りが進み、マリアの胸が徐々に高鳴ってきた。
「最後に屋根裏を見てこよう」
大神にうながされるまま、先に階段を昇る。暗い屋根裏は、月明かりが差し込む中で冷たく静まりかえっていた。
「…異常はないようですね…」
言いながら振り向いたマリアを大神が捕まえた。
「マリア…」
再び唇が重ねられ、抗おうとしたマリアの体が術にかかったように力を抜かれていく。時々歯のあたるカチカチという音が、頬骨をつたって頭骸を震撼させる。顔を抱く大神の両手の親指がマリアの耳朶を弄び、残りの指が髪の間を這い回っている。
 長い口づけのあとで、深く息を吐きながら、大神が耳を軽く噛んできた。
「ねえ…見せてよ…マリア」
「…え…そんな…ここでですか…?」
「大丈夫。誰も来ないさ。みんなもう自室で眠っていることは、今二人で確認したじゃないか。…この帝劇で起きているのは、俺たちだけだよ」
断わる理由を先手をとって封じられ、マリアは仕方なくコートのベルトをほどいた。
 手袋をはずし、ブラウスのボタンをひとつづつひねっていく。袖から抜いた肩が、寒さで一瞬にして粟立った。黙って見つめる大神の視線に操られるように、マリアは凍えながらすべての衣類を足もとに脱ぎ捨てていく。やがて、月明かりの中に、マリアの白い肌が大理石のように輝いて浮かび上がった。円と放射線でできた窓の桟が、体の曲線に複雑な模様となって影を落とす。
「綺麗だ…なんて綺麗なんだろう…マリア…」
うっとりと溜め息をつきながら、大神が歩み寄って抱き締めた。額にかかる髪を掻きあげ、肩を押してマリアの体を柱に持たせかける。
「この世のものとは思えないくらいだ…」
大神の手が肩を滑って下がり、マリアの手をとって持ち上げる。そのままゆっくりと上にまわし、柱を抱くように頭の後ろで手首を組み合わせて押さえた。マリアの顔が怪訝そうに曇る。
「隊長…?」
「…じっとしてて…」
大神がポケットから細い紐を取り出し、そのままマリアの手首をぐるぐると縛っていく。
(何をするんです…やめてください…)
喉まで出かかった言葉を、マリアはなぜか飲み込んだ。
「痛い…?」
「いえ、大丈夫です…」
反射的に答えてから、自分の馬鹿さ加減に泣き笑いしたくなる。何を言っているんだか。なぜやめてくれと言わないのか。大神に嫌われたくないからか…?それとも…。考えるのが恐ろしくなり、すがるように大神の笑顔を見つめる。
 きりきりと手首が締めつけられ、紐が固く結ばれて、両手が完全に動かなくなった。大神が二〜三歩離れて、再び月光に照らし出されるマリアの全身を感嘆の吐息とともに眺める。
「本当に…綺麗だよマリア…。なんて言ったっけ…ギリシャ神話の、海の怪物に生け贄にされる王女…、そう、アンドロメダみたいだ…」
困惑するマリアの、白く浮き上がった二の腕を、大神の指先が蛇行しながら滑っていき、脇の窪みの中で踊る。くすぐったさに身じろぎをすると、腕の内側に堅い柱の角が当たる。マリアの反応に大神がいたずらっぽく喉の奥で笑い、さらに指を走らせる。
 その視線が、冷気に窄まった胸の突起に注がれているのに気づき、マリアの頬が恥ずかしさで染まった。
「寒いとこんなになっちゃうんだ…ごめん、すぐ暖めてあげるから」
言うなり、大神の熱い唇が包みこむ。
「あ…っ」
結ばれていたマリアの唇が、蝶番が外れたように開き、溜め息のような声を漏らす。大神の舌が、どうしたらこんなふうに動かせるのかと訝しむほど、自在に、巧みに、マリアの胸を溶かしていく。豊かな膨らみを両手で下から押し上げるように、じわり、じわりと大神の指先が食い込む。マリアの体を凍らせている冷気にもかかわらず、大神の手は気味の悪いほど暖かかった。
「は…っ…あ…ああ…っ」
息を飲み、止めて、また大きく吐くうちに、呼吸が声帯をかすり、いつしか喘ぎ声がとってかわった。大神の唇が離れ、ようやく舌先から解放されたかと思ったのもつかのま、反対の胸を同じ刺激に責められる。
 消化液で獲物の体を溶かして、吸い上げて食べる生き物はなんだったろう。昆虫だか、ヒトデだか…頭の隅でそんなことを考えながら、半ば閉じた眼で凍った窓ガラス越しに星空を見上げ、マリアは喉を震わせ続けた。
 大神の指がさわさわと脇腹を這い回り、左右の腰骨の間を行き来しながら、足の付け根へ向けて下がっていく。同時にマリアの呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が跳ね上がる。それに気づいているはずなのに、大神はじらすようにただ指先を上下させている。体の末端部分は寒さに凍えながら、耳と頬、胸元のあたりが、火を噴くように熱く燃えているのが、自分でもわかる。
 やがて、当然のように大神の指が体の合わせめにゆっくりと沈んでいく。
「んっ…」
マリアの喉が、首を絞められたように引きつれて、切ない呻きを絞り出した。羽毛でくすぐるかのように、軽くかすかに、大神の指先が先端に触れつづける。マリアの膝の骨が一瞬にして消え去ったかのように力を失って、支えをなくした体が、柱の平面を擦りながらずるずると崩れていく。かくかくと震える膝に跨がって、大神が勝手知ったるというように、ニ本目の指を差し入れた。マリアに触れる面積と力を増やし、花心を捻り、周囲を掻き回す。仰け反ったマリアの顎が、また喉元に引き付けられ、右に、左にと狂おしく巡らされる。そのたびに、淡い金髪が柱にすりつけられ乱れていった。
 吐息とともに吐いても吐いても、体の中心から掻き立てられ沸き上がる愉悦が、尽きることなくマリアの体を焦がし、背骨を蝋細工のようにあえなく溶かしていく。後頭部の奥が固く、熱くなり、しいんという耳鳴の彼方から、自分の絶えまない噎び声が、他人ごとのように聞こえてくる。
 身をよじるたびに、柱の角が擦れて痛むのが、マリアは気になって仕方がなかった。腕の内側に擦り傷など作ったら、聖母の衣装が着られない…そんな心配をしながら、こうして大神の愛撫に身を任せて喘ぐ自分が聖母を演じることに、苦い皮肉を感じてもの哀しくなった。
 あられもなく身悶えする自分を、空いた方の手で体のすべての曲線をなぞりながら、大神がじっと見つめている。しかし、その表情は薄暗い上に逆光になっていて、うかがい知ることができない。
 刺激を受け続けている部分は、段々ひりひりとしてきて、自分が今感じているのが快楽なのか苦痛なのか、マリアにはわからなくなってきていた。

「…ちょっと待っていて」
ふいに大神が体を離し、立ち上がった。
「…隊、長…?」
切れ切れに呼びかけるマリアに背を向け、大神は黙って階段を降りていってしまった。
 柱を背に抱いたまま、マリアは一人屋根裏に放置された。
 どうしたのだろう…どこへ行ったんだろう…。ぼうっとしていた頭がはっきりしてくるに連れ、十二月も下旬の深夜の冷気とともに、静かに不安が体を蝕んでいく。
 このまま大神が戻ってこなかったらどうなるのだろう。凍え死にはしないとしても、その寒さはどんなに厳しく苛むことか。何より、誰が自分を見つけるだろう。よく屋根裏に来るのは織姫か、アイリスだったか…こんな姿を見られたら、どんなことになるだろう。
 寒さよりも、恐怖でマリアの奥歯がカタカタと鳴り始めた。
「……隊長……隊長…」
震える声で呼び続けたが、大神の戻ってくる気配はない。ほんの二〜三分なのか、それとも数時間なのか、時間が凍りついたまま流れるのをやめ、気の狂うような静寂だけが全裸のマリアを包んでいる。凍った空気にさらされつづけた肌が、ゆっくりと麻痺していくのが感じられ、恐ろしさに気が遠くなる。
「…隊長……隊長……隊長……っ!」
マリアの緊張と恐怖が限界に達しようとした瞬間、階段から大神の頭がぬっと現れた。
「隊長…!」
安堵のあまり潤んだ眼で、救い主のように近づいてくる大神の姿が、ぼやけて見えなくなった。
 そんなマリアの様子に気づかないのか、おだやかに微笑みかけながら、大神がマリアの手首の戒めを解いていく。
「ちょっと強く縛りすぎちゃったかな…ごめんよ」
血行をとり戻してじんじんと痺れる手首をやさしくさすり、くっきりと残った赤い縞模様に大神が口づけた。かじかんだ指先を握って、暖かい息を吐きかけ、震えつづけるマリアの体をしっかりと抱き寄せる。
「冷えきっちゃったね…俺の部屋、暖めておいたから、続きはそっちでしよう」
 マリアの体が再び凍りついた。
「…はい…」
一瞬の沈黙ののち、怯える理性に反して、かき乱されてくすぶったままの体の内側が、勝手に返答していた。

 下着を拾い上げ、身につけようとして、どうせすぐに脱ぐのだから、と考えやめる。コートを直に羽織りながら、わけのわからない空恐ろしさを感じて、ふと指先が止まった。
 昨日の夜は目隠しをされた。
「肌の感覚が敏感になって、いいんだって」
大神が黒い布で両眼を覆いながらやさしく囁いたときも、自分は抵抗しなかった。実際、いくら眼をこらしても甲斐のない闇の中で、どこからともなく降ってくる愛撫に狂わされ、思わぬ淫らな振る舞いをしてしまったような気がする。…その前は鏡の前に立たされた。
(今日は何をされるのだろう…)
そう思うと、鳩尾のあたりを冷たい手できゅうっと掴まれたように、気味の悪い無力感が体の奥で疼く。
 補食者の姿を目のあたりにしながら、為すすべもない哀れな獲物…。いや、そんなはずはない。思い続けていた人と、愛し愛され、何の不満があるというのだ。そう自分に言い聞かせながらも、頭をもたげてくる得体のしれない不安を、拭い去ることができない。
 これは本当に自分の望んでいた世界だろうか。帝都は平和を取り戻し、仲間たちは戦いに赴くことなく、舞台で輝くことに専念している。大神はこのうえなく自分を愛してくれる。恐ろしいほどに…。
 それとも、もう一度帝都を襲う敵が現れたら、また元のようにともに戦える日々に戻れるのだろうか。
 ふっと頭をよぎった不謹慎な考えを、マリアは眉根を寄せて振り払った。

「暗いから、足もとに気をつけて」
大神が階段の下から手を差し伸べる姿を見て、さっき考えていたイメージが浮かぶ。
(…蟻地獄…)
流砂の中で虚しくもがき続けるよりは、いっそ自ら巣穴に落ちていって、その甘美な牙に身をゆだねる方が楽なのではないか。
「さあ、俺の部屋まですぐだから」
やさしく微笑む大神に、恐る恐る自分の手を重ねる。
 切なさが込み上げて、ふいに涙がこぼれた。なぜだか自分でもわからない。悲しいのか、恐ろしいのか。それとも…。

 さらさらと鳴る砂の音を聞きながら、大神に手をひかれ、マリアは静かに階段を降りていった。



《了》

黒鬼会が復活してよかったね。





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