五月晴れ 





 
今年もまた、一年で一番さわやかな季節がやってきた。
 雲ひとつない青い空がどこまでも続き、木々たちはすっかり緑に覆われ、草花は優しい風に乗って踊っている。
「レニ」
 しかし日向ぼっこをするには少しだけ日差しがきつい。
 そんな理由でいつもの中庭のお気に入りのベンチではなく木陰に座ってフントといっしょに読書をしていたレニに、後から声がかかる。
「隊長。もう仕事終わったの?」
 足音で誰かは分かっていたのだけれど、振り返って彼の顔を確認するとやはりどうしても嬉しくて思わず声が弾んでしまう。
「ああ、やっと終わったよ。隣、座ってもいいかい?」
「どうぞ」
 そんなレニを見て顔をほころばせながら彼女の隣に座る。
 レニは読んでいた本をフントに横に置いて、彼のぬくもりを感じようと少しだけ大神に寄り添う。
「あ……っ」
 けれどそれだけでは許さず、大神はレニの華奢な方を抱いて胸に引き寄せた。
「たいちょ……」
 レニは少し頬を赤らめたけれど抗わずに全身を大神に預ける。
 そうして二人はしばらくの間、お互いのぬくもりと春の陽気さだけを感じていた。
「そういえば……レニと初めて出会った日も、こんな五月晴れだったね」
「え……?」
 突然言われたことの内容に驚いてレニが顔を上げると、大神は目をつぶって、何か大切なものを思い出しているようだった。
「……よく、覚えてるねそんなこと。もう三年も前のことなのに」
 少しだけ顔を曇らせたレニを、目をつぶっている大神は気づかない。
「ああ。あの日、アイリスがレニがきたらテラスから声を掛けようって言い出してね。それでテラスでレニが来るのを待っている間に、今日は五月晴れだねっていう話をしていたんだ。まあその話をしていたから声をかけるのに間に合わなかったんだけどね」
 はは、と笑って、大神は空を仰いだ。
「……どうしたんだい?」
 うつむいて自分の腕から逃れていったレニを大神が不思議に思って問い掛ける。
「ボク……あの頃のこと、あまり覚えていないんだ」
 三年も前だからというのではなく。
「あの頃は、天候になんか興味なかったし……無駄なことは覚えないように教えられていたから……」
 戦うための知識以外に興味を持つのも記憶するのも許されずに生きてきて。
「みんなで始めて熱海に旅行に行った辺りからはだいたい覚えてるんだけど……ボクが帝劇に来た日のことは……鴬谷で戦闘があったことは覚えてるけど。……せっかく隊長と、みんなと出会えた日なのに、ボクはそんなことしか覚えてなくて……」
 帝劇に来てからの三年間を思い返してみると、それまでの十五年間など比べ物にならないほどの大切な思い出がたくさん蘇ってくる。
 けれど運命とすら言えるあの日のことは、そんなつまらないことしか思い出せない。
「ボク……わあっ?!」
 すっかり肩を落としてしまったレニの言うことを最後まで聞かず、大神はレニの体をひょいっと持ち上げて自分のひざの上に乗せてしまった。
「ちょ……っ、やめてよこんな所でっ!」
「大丈夫だよ」
 こんな所を誰かに、特に織姫辺りに見つかればこのことで一ヶ月はからかわれる事は確実なので、なんとか逃れようと暴れるレニを大神が後から抱きしめて耳元でそうささやく。
「大丈夫じゃな……んっ?!」
 中庭なんていつ誰が来るかも分からないし、帝劇の中からも見渡せる場所で何が大丈夫なのだと後ろを振り返って抵抗したレニの唇に、大神はチュっと音を立ててキスをした。
「な……っ」
 この一年でキスはたくさんしてきたけれど、未だになれないレニは突然だったことも手伝って、真っ赤になったまま固まってしまった。
「かわいいよ、レニ」
 そんなレニを楽しそうに見ながら、大神は更にレニが赤くなりそうなことをさらりと言ってのけた。
「……っ!か、からかわないでよっ!」
 絶対に楽しんでいるとしか思えない大神に少し腹を立てて、何より恥ずかしさを隠すためにレニは大神の肩をぽかぽかたたいた。
「大丈夫だよ。俺が覚えているから」
「え?」
 そのレニの腕を引いて自分の胸に抱きしめながらさっきと同じ言葉を、しかし違う意味を持って言う大神に、何のことだろうとレニが問う。
「レニが覚えていないこと、みんな俺が覚えてるよ。あの日のことも、全部話してあげる。それに……俺が忘れてしまったことで、レニが覚えていることも聞きたいな」
 大神はレニの髪を静かに撫でながらそう言った。
「……隊長」
 レニは言葉を詰まらせて、大神のシャツをぎゅっと握る。
「レニ……愛してるよ」
「……」
 肩を抱いて優しい瞳で見つめながらそう言ってきた大神に、そんな睦言にも全然慣れないレニは目をそらすこともできず、彼の顔が近づいてくると恥ずかしさできゅっと目を閉じた。
「……え?」
 しかし大神の唇はレ二のそれに触れることなくそのまま顔を通り過ぎて自分にもたれかかってきたことにレニが驚いて目を開ける。
「た、隊長?」
 なぜだか耳元で健やかな寝息が聞こえてきて彼の体をなんとか木にもたれさせると、案の定、大神は気持ちよさそうに眠っていた。
「……もう、隊長ったら」
 その寝顔に一瞬呆然として、少しだけすねた口調でレニが文句を言ってみる。
「あんまり無理しちゃだめだよ」
 けれど最近仕事が立て込んでいて彼が徹夜気味なのも知っているレニは、大神の耳元でそうささやく。
「……レニ」
「隊長?」
 名前を呼ばれてもしかして起きていたのかと慌てて顔を覗き込むと、相変わらず気持ちよさそうに眠っている大神がいた。
「……ずっといっしょにいてね、……い、一朗……さん」
 寝言でも自分の名前を呼んでくれたのが嬉しくて、レニは大神の胸に顔をうずめながらまだ直接は恥ずかしくて言ったことのない名前を呼んでみた。
「……フント。今の、隊長には内緒だよ」
 その瞬間、隣で寝ていたフントと目があって、レニは恥ずかしさを隠すために少しまじめな顔を作って言った。
「くうん」
 そんなレニに何かを感じ取ったのか、フントは了解というように小さく鳴いて再び眠りに着こうと目を閉じた。
 それを見てレニも大神に全身を預けて静かに目を閉じて今日を感じた。
 さわやかな風が、そっとレニの柔らかい髪をすくって行った。
 小鳥のさえずりや、木々が風に乗ってゆれる音が聞こえる。
 目を閉じていると、思い出す。
 彼と出会った日、彼がいなくて寂しかった日、彼と初めてキスをした日。
 みんな今日みたいな五月晴れだった。
 そして、これからもずっと…。



 二人をめぐり合わせた五月晴れ。
 それは二人の、とても大切な宝物…。




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