雪炎





 私が、初めて人を殺したのは、九歳の時だった。
 よるべない、飢えた孤児だった私に、一片のパンとともに差し出されたのが、まだ手のひらに大きく重たい銃だった。それを持って、私は、私と家族を虐げつづけた看守のもとへ行き、一発で撃ち殺した。
 極寒の流刑地で、いかに死に慣らされ、殺意をいだくほどに相手を憎んでいたとはいえ、小気味よさを感じる前に、恐怖で身がすくんだ。瀕死の形相で睨む大きな男の、命の消えゆく瞬間を目のあたりにし、その死が自分の手によって下されたのだという認識は、銃の反動以上に私をうちのめした。
「これからは、自分の手で人生を切り拓いていくんだ。大丈夫。君のしたことは間違っていない」
こわばって白く固まった私の指を、一本ずつ、そっと引き金から剥がしながら、彼が諭すように語りかけた。
「この男が横領によって私腹を肥やしていたことは知っている。人民の敵だったんだ。彼のような者たちのくびきから、人々を、君自身を解き放てるなら、これは正しいことだ。みんな、革命のために必要なことだから」
 彼の言葉で私は救われた。もはや他に生きる道など考えられなかった。

 戦場では、死は日常的で、背後霊のようにいつのまにかしのびよる油断のならない相手だった。
 そんな生者すらあやうい場所で、死者に尊厳などあるわけもなかった。雪原に累々と横たわる死体からは、その熱とともに、夢も、思いも失われ、宙を漂うことすらなく凍てついた風に吹き飛ばされていく。少しでも良いブーツを、帽子を引き剥がしながら、無造作に積み上げられる敵と仲間の屍に、死と命への感覚はますます麻痺していった。
 やがてクワッサリーの名を戴き、その名が、畏怖と興味と、死神めいた忌避を含んで囁かれても、私はそれを得意にした。瀬戸際の、すり減った生にあっては、敵はただの動く標的で、命あるものとして思い遣るようなゆとりはなかった。自分の能力が認められ、必要とされているという、初めて味わった充足感は、私の胸を燃やし、酔わせた。
 彼のために生き、彼のために死にたいと願っていた。…あの日までは。



「俺はもう疲れたよ、マリ−ヤ」
大きな戦闘で惨敗を帰し、頼みとしていた腹心の部下を失った直後だった。
「この国には革命が必要だ。そう信じてきた。革命こそが、貧しいたみびとを救い、君のような子供たちが幸せに暮らしていける世界をつくるのだと…。だが、いつまで戦っても、終わりは見えない。俺の生きているあいだには成就するものでないのかもしれない。それでもいいと思っていた。その礎のひとつとなるだけでも…」
やりきれない、というように、顔を覆い、彼は苦しげな溜め息をもらした。
「だけど、わからなくなってきた。みんな死んでいくだけだ。仲間たちも、たくさん失った。こうして、くりかえし血を流しつづけるだけで、俺の一生は終ってしまうのか。それが、本当に、何かにつながるのだろうか」
 彼の心情を、情熱を、理解しているつもりだった。それゆえに、その言葉は異質で、にわかには信じられなかった。挟む言葉を持たない私に、顔をあげ、彼は向き直った。
「マリ−ヤ、君はまだ若い。他のみんなと違って、方向転換するチャンスはいくらでもある。この戦闘が終ったら…俺といっしょに、もう一度新しい人生を始めるのもいいと思わないか。自由の国、アメリカに行って、すべてを忘れて、…俺と…」

 どこで入手したのか、ニューヨーク行きの船の切符を私の手に握り込ませ、その手で押し包んだ。黒い眼鏡の奥から彼の眼がじっと私を熱く見つめ、やがて耐えかねたように抱きしめてきた。
 呆然とした私の沈黙を彼は喜びゆえと受け取ったようだった。
 しかし、彼の苦悩を理解し、変節を容認するには、私は幼く、意固地で、蒙昧だった。私は戸惑い、いぶかしみ、かすかに沸き起こる失望の正体を見極めようとしていた。
 その時、初めて私は、自分の血濡れた手を意識した。
 彼の言葉は、私の体を血で染めあげてもなお、さらなる戦闘へと駆り立ててきた日々への裏切りに思えた。将来を誓う言葉は、むしろ私の心を奇妙に寒からしめた。この世の混沌を統べる手の届かない律神は、触れ得たがゆえに俗化し、堕ちて色褪せ、木乃伊のように風化して足もとで朽ちていった。
 私のしてきたことは間違っていたのですか。あの最初の殺人も、数え切れないほどのこの手で奪った命も、そんなにもろいもののために、許されていたのですか。
 あなたの言葉に殉じた人々を、正当化された死を、すべて捨てて、葬って、あなたは逃げると言うのですか。
 疑念がようやっと形をなして、問い詰める言葉の体を持ったのは、戦場の直中だった。


 こちらに向かって走ってくる彼を、背後から狙う銃口に気づき、照準に捕らえた。彼の命を救うことができたのは、私だけだった。しかし、次の瞬間、私は引き金を引くことを躊躇した。
 粉雪が、爆風に巻かれ、きらめき、舞い上がり、彼の足もとをスモークのように流れていた。燦然と光彩を放つ炎に照り返されたその姿は、神々しく、この凍った大地に愛され、埋もれていった屍たちに崇められていた。
 彼が、生きてこの国を逃れるのは、許されないことのように思われた。

 そのいっときの逡巡は、永遠となって私の時間を止めた。
 倒れる彼の姿は、スローモーションのように鮮明に私の網膜に焼きつき、細胞のひとつひとつに浸透し、二度と私から離れることはなかった。砲撃の嵐の中に飛び出して、彼の体を抱えて引き摺りながら、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔とともに、自分が何か極点に立っているような達観を覚えた。雪の上に横たえた彼の、唇の端には血の泡が浮き、喉がごぼごぼと鳴っているのが間近に聞こえた。
 削げた頬に指先でふれると、ずり下がった眼鏡の影から、私を認めた彼の眼が問いかけるような光を帯びた。私らしくない、ほんの一瞬の援護の遅れの意味を、彼は死のまぎわに悟っただろうか。

 やがて彼はこときれ、その死によって浄化された。彼の昇天を見届け、この最後の聖戦はようやく私の中で終焉を迎えた。
 白い、気味の悪いほどにどこまでも真っ白い雪に、流れ落ち、染み込み、鮮やかに赤く染めあげる彼の血に、私は手袋を嵌めた手のひらで、雪をすくってはかけ、埋めていった。流れ出る血は止めどがないようだったが、雪もまた無限にあった。
 飛び交う曳光弾が、耳もとをかすめる銃声が、やがて自分に落ち、貫くのを待ちながら、私は雪をすくい続けた。




 敗走する部隊から一人離れ、モスクワからオデッサを抜けて、私は黒海へと向かった。難民の群れにまぎれて、汚れた大きな船の甲板から眺めた遠ざかる故郷の島影は、郷愁めいたものを呼び起こすには、あまりに苛酷で、忌まわしすぎた。
 戦場の狂気から覚めた時、彼が見捨てた革命の理念が、彼の死後もなお私を恭順させるわけもなかった。死にそびれてみると、ここは自分の死ぬ土地ではないように思えた。ならば誰も自分を知らないところで、革命も理想も関係ないところで死にたいと思った。
 写りの悪い彼の写真を、一枚だけ持っていた。罪の証として、肌身に持っているつもりだった。自らに嵌めた枷の重さと痛みは、幼さのぬけきらない感傷的な心には、いっそ甘美に感じられた。
 自由の国。そこでは、破滅することも自由なのか。生き難い日々を生き抜いて、こんなふうに生をもてあます日が自分に来ようとは思わなかった。
 ニューヨークも寒い土地だと聞いた。そこにも雪は降るのだろうか。ロシアの雪のように、深く白いのだろうか。その雪に私の血はどんな色に映えるだろうか。
 かの地の雪に思いを馳せながら、私は水平線に消えゆく故国を無感動に眺めていた。
 最低の人生を生きるために。死に場所を見つけるために。それが、心のどこかでまだ生への可能性を探していることへの言い訳なのかどうか、十四歳の私自身にもわからなかった。


《了》





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