しるしふみ


 二人を抱いて眠る大地なのに、その証となるものは何一つ残っていなかった。
 私の中で露西亜との唯一の絆、ユーリーの墓参りに行く途中に立ち寄った、流刑の地で立ちつくした。
 9つの時に父が死んで、その時はきちんとした葬儀が行われたが、宗派の違う母の時は、数人の者が棺をこの湖の側に運んでくれだだけ。墓標になるものもなく、近くの森に入って何日かかかって手頃な朽ち木を探し、手を入れて墓標にした。旅券を渡され、半ばやっかい払いされるかのように村を飛び出すまで、毎日通った、形が違う二つの十字架。
 目の前に広がるその風景は、幼かった頃と全く変わりがなかったが、両親がそこに暮らし、そこで息を引き取ってここに眠っているという証拠はどこにもなかった。


「マリア…もう遅いよ」
 露西亜から帰ってきて、口数が少なくなった私を心配するかのように、隊長が何かにつけて声をかけてくれる。
 露西亜で見たあの光景は、自分という存在すら否定されていたような気になって、支配人に資料の整理という理由を押しつけて、あやめさんの部屋にこもるようになった。  この世界から、あやめさんがいなくなってしまってから、既に一月。
 彼女の実家には、彼女の形見となってしまったいくつかの品物を届けただけで、その後どうなったのか私には解らない。少なくとも帝劇においては少しずつだけれども、あやめさんが占めていた場所というのがなくなっていく。
 この部屋もいつか新しい副司令が着任したときに備えて、変わってしまう。そうしたら、彼女という存在は…彼女が確かにここにいたということは、誰が証明してくれるのだろう。もしかしたら、私が覚えてる彼女との二人きりの思いでは、自分が忘れてしまったら、もう存在自体が消滅してしまうのかも知れない。
「マリア?」
 考え込んでいる私に、もう一度心配そうに隊長が声をかけてきた。先ほどは聞き流してしまったその言葉をやっと理解して、声がした方向を向いた。
「隊長…」
 こちらを覗き込むように向けられた隊長の目を、そらすことが出来ずに見つめ返した。心配という思いを向けられて、心の奥が少しいたんだ。
 隊長もこの部屋や、あやめさんとの二人きりの思い出がある。以前私が隊長を拒んでいたときなど、この部屋によく来ていたことを露西亜の旅路の途中に聞いていた。
 だから、私がここにいることを深くは問わない。名目をつけて、実際は彼女との思い出に浸ってばかりいる私を責めたりもしない。
 ただこんな風に、その事しかしようとしない私の身を気遣って、声をかけてくれるだけ。

「もう消灯時間は過ぎたよ。それともまだ眠くならないかい」
 毎晩繰り返されるそんな言葉。私の手元から仕事の書類を抜き取って、隊長が目を通していく。最後まで読み終わるとサインをして、封筒にしまってしまう。今日の隊長の仕事は、これで終わりの筈だ。
「いなくなってしまった人を忘れないようにするためには、どうしたらいいですか?」
 一人で抱えているのが苦しいのか解らなかったが、何となく隊長に聞いてみる。一瞬なんの意味か解らないように、隊長の顔がきょとんとするが、すぐに意味をわかってくれて、考え込む表情に変わる。
「うーん。そうだね。自分が忘れてしまって困ることは、人に話した方がいいと言うけれど…」
 隊長は、どんなに軽く私が言ったことも真剣に考えてくれた。今回も答えるのに時間をかけて私にいろいろ問いかけて、方向違いの答えにならないように気を使ってくれたのが解る。
「人に話す?」
「そう、自分が忘れても、その人が忘れなければ、消えることがないだろ?」
「……」
「あやめさんのことを忘れたくなければ、誰かに覚えていて貰えばいい」
 俺で良ければいつでも聞くよ、と照れくさそうに頭をかく隊長の言葉がひどく意外で、嬉しかった。言葉にすると言うことは、誰かを縛り付けると思っていた自分には、考えられないことだったから。
「そうだ!マリアいろんな本読んでるんだったら、文章は書けるよね」
 いいことを思いついた子供のように、隊長が急に嬉しそうな表情をした。
「お話にすればいい。あやめさんのことを。本人のことを直接書くことが辛かったら、その部分を空想の人に当てはめればいい」
「…小説ですか?」
 急に言われたその提案にびっくりした。確かにいろんな本を読んできて、戯れにアイリスに話す短い話は書いたことがあったが、そんな形であやめさんのことを書く事なんて想像しなかった。
「そう。もしもマリアが書く気になったらで、いいんだけどね」
「はい…」
 ちょっと自信なさげな声になってしまった私を勇気づけるように、握ってくれた手は、何となくだが紐育で私を助け出してくれた、あやめさんの手の温かさを思い出させてくれた。


 あの時から、二つ目の冬を迎えていた。あやめさんの部屋は今の副司令のかえでさんの居場所となり、私たちも誰一人欠けることもなく、新しい闘いを戦い抜いてここにいる。
 あのあやめさんの部屋で交わした約束のすぐ後に、帝劇を後にした隊長も一年の空白の後にまた帝劇に戻ってきて、今では当たり前のように私の側にいてくれた。再会したときに、思い返したように約束のことを一回だけ聞いてきたが、私は忘れてしまったかのようにかわしてしまった。本当は出会った頃のこと、華撃団が出来る前に二人で話したこと、私があやめさんと過ごしたときが、自分の中で確かな内に書いておこうとかなりの文章を書き留めていたが、何となく気恥ずかしくてつい嘘をついている。

「どうしようかしら…」
 ペンを滑らせては止めて、ため息をついた。ここ数日、私は隊長がヒロインに選んでくれた一夜だけの特別公演[奇跡の鐘]の台本の書き直しに没頭していた。
 大体隊長の要望通りのものが出来たと思うのだが、あるシーンの一言だけがどうしても書けない。聖母が天使達の起こしてしまった災いを許そうというシーン。
 一言で全てのものを包み込むような許しの台詞。それがどうしても思いつかなかった。
「仕方がないわね。休憩でもしようかしら」
 考えてみれば、ここ数日部屋と書庫の往復だけで、外の空気を吸っていない。いくら何でもそれでは、思いつくものも思いつく訳がない。

 サロンでコーヒーを入れて、テラスの方へ足を向ける。寒いせいかちらちらと粉雪が窓の先に見えたが、気にせずにテラスのガラス戸に手をかけた。
 冷たい空気が、部屋の暖房に慣れきった身に心地よい。こころなしか、考えていることも冷やされて澄んでくるようだった。
「どんなに嘆いても、戻らないことはあるわ。それよりもその戻らないものよりも良い事をすればいいじゃない?」
 紐育であやめさんにさしのべられた手と、同じくして私にかけられた言葉。罪というものを許すわけではなく、ただその償い方を示してくれた言葉。それで私がこの途を選ぶことが出来た。
 そうだ、この言葉を聖母に言わせよう。私が救われたように、天使達の事を許せる言葉になるかも知れない。
「あやめ…さん?」
 その小さな声で振り返る。音も無しに開いたガラス戸の向こうから、ほんのかすかに響いた声が、隊長の動揺を伝えてくる。
「ああ、ごめん。あまりにあやめさんの言いそうなことだったから…いや、言い方もあやめさんみたいに思えて…」
 しどろもどろになりながら、隊長が私のことを抱きしめる。こちらが苦しくなって身をよじらせるほどに強く抱きしめた。
「これは聖母様の台詞かい?」
 大分力は緩めていたが、私を腕の中に抱きしめながら、隊長が聞いてくる。私はどんな感想を持たれてるか不安で、小さく頷く。
「忘れられない聖母様になるね…他の人の中の聖母様がどうなのか、解らないけれど、みんなが覚えていてくれる聖母様になるよ」
 隊長の言葉で、以前交わした約束をまた思い出した。そうだ、書きとめることだけではなくて、いつか自分で演じられるように書いてみよう。そうすれば、芝居を見てくれた人たちが、名前を知ることは出来ないが、覚えていてくれるかも知れない。
「本当に覚えていてくれますか?」
「ああ」
 ならばいつになるか解らないけれど、書き上げてみよう。私とあやめさんの思い出達を。




END  

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