滞在者






 船はゆっくりと横浜港へ向けて船首を回した。横浜の平らな町並みの向こうに富士が悠然とそびえている。
 日本は秋が一番美しいと、マリアは思った。
 三渓園の木々が海際に迫り、それが紅葉してあざやかな朱を海面に映している。そしてその沖で小さな漁船が何隻も網を入れている。
 ああ、いかにも日本だと思った。
 横浜新港埠頭第四岸壁に、船は定時に着岸した。立派な旅客ターミナルから桟橋が延びて来る。女の旅行にしては小さな荷物を自分で引っ張りながら、マリアはターミナルの人ごみの中を見回した。日曜日のせいか、人の数は想像していたよりずっと多かった。
「マリアさん!!」
と、聞き覚えのある声がした。地味な着物を着て、髪をまとめたさくらが手を振っていた。その地味な服装と、無闇に勢い良く手を振る様子とがなんだかちくはぐで、マリアは微笑した。その横に、あいかわらずの茶色い丸い大神が立っていた。太った体に茶色いソフト帽子に茶色の背広、茶色のズボンに茶色の靴。数年前のジュネーヴでの再会を思い出して、マリアは少し気まずい思いがした。
 そんなマリアの気持ちを知って知らずか、大神は帽子を軽く取って会釈した。ごったがえす人ごみをぬって二人に近づいたマリアは、さくらのうしろに隠れている小さな男の子を見つけた。
「マリアさん!」
さくらが駆け寄ってきた。自分の腰にしがみついた男の子はかまわずそのまま引きずって来るので、まるで彼女の腰から小ぶりな鯉のぼりがはためいているような具合になった。
「お久しぶり!」
子供の重さもものかわ、マリアに駆け寄ったさくらはマリアの両手をしっかり握り締めた。
「・・・・変わらないわね、さくら。」
マリアはとうとう吹き出してしまった。なぜ笑われたのか分らないらしく、きょとんとしているさくらの肩越しに、マリアは男の子をやさしく見下ろした。
「こんにちわ。・・・えーと?」
その視線をたどって、ようやく自分が子供を引きずって来たことに気付いたさくらが、顔を赤らめて紹介した。
「あ、あの、息子のいっこうです。」
「イッコウ?」
「数字のいちに海を航海するの航。一航っていうんです。」
「そう。」
マリアはさくらに手を握られたまましゃがみ込んで、男の子と目の高さを合わせた。
「一航君、こんにちわ。いくつ?」
彼ははにかんで母親の後ろに改めて回りこみながら、それでも
「ごさい。」
と答えた。
「いやあ、かあさん。」
と、大神がゆっくりと歩んできた。
「凄かったぞ。フネが長旗一旒なびかせて突っ走っていくところかと思った。」
「なんです、それ」
さくらが顔を赤くしたまま口を尖らせた。
 かあさん、か。
マリアは胸の奥でつぶやいた。
「良く来てくれたね、マリアくん。」
マリアは大神と握手した。あまり力は込めなかった。

 ターミナルの前からタクシーに乗って、埠頭の西門から税関の脇を抜け、山下公園前のホテルに移った。一度部屋に荷物を入れてから、マリアは大神一家とホテル2階のロビーのソファに収まった。
「今日は軍服じゃないんですね?」
マリアはたずねた。大神は丸い顔を上げて笑った。
「海軍は仕事の時以外は軍服は着ないもんさ。それに俺はへそまがりだからね。」
大神はロビーの反対側を見た。カーキ色の一団が、なにやら賑やかに話しているのが見えた。
「ちょっと前までは軍人は馬鹿の見本だみたいに言ってた連中が、今度は立派だ護国のナントカだとか言い出すと、もう軍服なんか着たくなくなるんだ。そう言われて嬉しくて浮かれてる連中の方が多いがな。」
ソファの中でなにやら大儀そうに体をずらしながら、彼は苦笑した。
「なに、も少し経てば、また軍人は疫病神扱いさ。」
「そうかしら。」
さくらが首を傾げて言った。
「まあ、いいよ。ところでマリアくん、」
と大神は話題を変えた。
「この時期に海外旅行とは、なかなか良いね。」
「そうでしょう。」
マリアは、さくらのとなりのソファにちょこんと「乗っかって」いる一航に微笑んだ。
「国務省の仕事もひと区切りついたし、今のうちに皆に会っておこうと思って。」
「わあ、いいなあ。」
さくらが心底羨ましそうな声を出した。
「レニとも会った?カンナさんとは?」
「会ったわよ。沖縄は横浜の前の寄港地だったもの。レニは凄く綺麗になってた。」
「ナチの幹部技術者だそうだね。」
大神が口を挟んだ。
「ナチって言うと怒るのよ。国民社会党って言ってくれって。あなたロスケって言われたら喜ぶ?って、日本語で言うのよ。」
「カンナさんは?」
「もう、元気すぎて自分で困ってたわ。」
「・・・・分るような気がするねえ・・・」
と、大神が笑った。
「あの田舎であの体でしょ、何処へ行っても目立って目立って。私と二人で歩いていたら、なんだか移動動物園の動物になったような気分だったわ。」
三人は声をそろえて笑った。一航が、なんだか分らずにつられて笑った。笑ってから、三人は互いに顔を見合わせた。
「それで、あの・・・」
そう言ったマリアの顔を見て、大神は視線をさくらに移した。目でうながしているようだった。さくらは膝の上のハンカチを握って言った。
「・・・・すみれさんは、やっぱり行方が分らないの。紅蘭は・・・・」
「紅蘭の件は、勘弁してくれ。」
大神はもう一度ゆっくりと辺りを見回した。
「申し訳ないけど、君らにも彼女をどこにかくまったかは言えない。日本の官憲は勿論、世界中の情報機関が彼女を探してることは間違いないからね。情報を知る者は一人でも少ないほうがいい。」
大神がじっと自分の目を見ていた。マリアはその視線を躊躇せず受け止めた。
「・・・・織姫は・・・・気の毒だった」
ぼそりと大神が言った。マリアは毅然と埠頭を歩み去って行く、織姫の背中を思いだしていた。

 翌日から、マリアはさくらと、それに一航と連れ立って、まず横浜、それからステーションホテルに一部屋とって、東京市内を見物して廻った。東京駅発の市内観光バスに乗って海軍省の横を通った時、さくらが
「わあ、これが海軍省」
と言ったので、マリアは笑った。
「なによさくら、あなたの御主人が働いているところじゃないの。」
「だって、」
と、さくらは反駁した。
「普通、海軍省なんて見に来ないでしょう?」
「それはそうね。バーゲンをやっているわけでもないし。」
二人は笑った。
「隊長・・・じゃない、御主人は今は何をしてるの?日本は、国連は脱退しちゃったから軍縮関係の仕事はもうないんでしょ?」
「うーん・・・」
と、車窓を後ろに過ぎて行く海軍省の建物を見送りながらさくらは答えた。
「よくわからないのよ。軍令部にいることは確からしいけれど、仕事は大臣官房みたいなもんだとか、なんだとか・・・」
「そう。」
マリアはそう言うと、さくらの膝に乗って窓に顔を押し付けている一航に話し掛けた。
「一航くんは大きくなったら何になるの?お父さんと同じに兵隊さん?」
「ううん。」と一航は首を振った。
「絵を描く人。」
「絵?」
「一航は絵を描くのが好きなのよね。男の子なのに、なんだか女々しいの。」
さくらはそう言いながら、まんざらでもないように一航を抱きなおした。
「いいじゃない。」
マリアは笑った。
「乱暴なばかりが男らしいわけじゃないわ。・・・たばこ、いい?」
バスは警視庁の角を曲がって、新議事堂に向かっていた。

 翌日。さくらはマリアを自宅に招いた。杉並の住宅街の一角の、小さな借家だった。それでも一応生垣を巡らせた庭があり、応接間と居間と台所と寝室に、4畳半ばかりではあるが書斎まで揃っていた。書斎には海軍関係の書籍が、和洋ぎっしりと詰まっていた。
「自分で古本屋みたいだって言ってるわ。」
案内したさくらが笑った。古い、良い色をした机の上に、帝劇のメンバーと一緒に並んだ写真が写真立てに収まって飾ってあった。
「・・・・懐かしいわね」
マリアの視線をたどったさくらが、静かに言った。
「また皆で会えたらいいのに。」
マリアは黙って二、三度うなずいた。
 応接間に戻ると、隣の居間で、一航が大きなスケッチブックに何やら書き付けていた。
「なあに、それ。一航くん。」
「かいぐんしょう。」
と言いながら、一航は茶色のクレヨンでぐいぐいと四角な建物を描いていた。
「あら。上手じゃない。」
マリアは声をあげた。確かに子供らしい拙い造型ではあるが、確かに海軍省の特徴あるレンガ建ての建物らしき絵になっていた。背後にはこれまた海軍省を特徴付ける、大きな通信アンテナの鉄柱まで書き加えてある。
「へえ。観察力するどいんだ。」
マリアは、応接間のさくらに声をかけた。
「・・・みたいね。幼稚園の先生にも誉められたのよ。」
「へえ。」
さくらは茶をいれるつもりなのか、台所に立っていった。
「どれどれ、一航くん。他にはどんな絵を描いてるの?」
マリアがそう訊ねると、一航は自分でスケッチブックを一度たたみ、次に初めから紙をめくり始めた。自分の家、近所の猫、どこかはわからないが花畑、船(ちゃんと商船になっている)、車、山と田んぼ・・・
「・・・・!」
次をめくった時、マリアは一瞬息を呑んだ。
「これ、何?」
声が上ずりそうになった。
「こうぶだよ。」
そう答えると、何事も無く一航は引き続き紙をめくっていく。が、次はもう、彼の近辺の情景ばかりが続く。
「・・・こうぶって・・・ああ、おとうさんとおかあさんに聞いたのね。」
「ううん。おばちゃん。・・・これはせんせいのところのシロ。」
一航は自分の書いたもの説明しながら、スケッチブックを繰っている。
「おばちゃん・・・おばちゃんて、よく来るおばちゃん?」
「ううん。よく知らないおばちゃん。話し方が変なの。」
鼓動が早まった。そのおばちゃんて、メガネをかけた・・・と口に出そうとした時、応接間からさくらが声をかけた。
「お茶がはいったわよ。一航ちゃんもいらっしゃい。今日はマリアおば、いやあの、マリアおねえさんがお菓子を買ってきてくれたのよ。」
わあ、と言って一航がスケッチブックを放り出して走っていった。
「やあねえ、いいわよ、おばちゃんで。」
そう笑いながら、自分の声が上ずっていないようマリアは祈った。目の奥には、スケッチブックの「こうぶ」の緑色が焼きついていた。

 省線の駅まで見送ってもらい、東京駅へ戻ることにした。本当は立川の方へ廻りたかったが、今の日本では自分の姿かたちでは目立ちすぎる。アジアでの活動の不便さを彼女は痛感した。そろそろ会社の退け時だが、方向が逆なので車内は空いていて、彼女は東京駅まで座っていくことができた。東京駅のホームからホテルへ戻ろうと階段をおり始めた時、逆に下から上がってくる大神を見つけた。
「やあ、奇遇だねえ。今帰ってきたところ?」
と、大神は笑った。
「そうなんです。隊長は、お帰り?」
「隊長はよそうよ。今はただの大神でいいよ。」
階段のごった返す人ごみから一旦ホームの上へ逃れて、大神は言った。
「今日は早仕舞いさ。なんだそうか、こんなに早く帰るんだったら、俺は早退しちまえば良かったな。そしたら一緒に晩飯も食えたのに。」
「いいえ、そんな・・・」
マリアが答えるそばから、次の下り電車が入線して来た。
「それじゃ、マリアくん。土曜の晩飯は大丈夫だろ?」
いいながら、大神は帽子を取って挨拶した。満員電車に乗り込んでいく後姿に会釈しながら、マリアはそっと周囲をうかがった。
・・・・・本当に奇遇なのか?

 木曜日は鎌倉と、そして一航が喜ぶからと、少し足を伸ばして横須賀へ行った。外国人そのものの姿をしたマリアには、駅頭から常に視線が感じられた。逸見の上陸場の側まで行くと、番兵塔の近くに立っていた制服姿の憲兵が近寄ってきた。丁寧に、静かに敬礼をしながら、帽子の下の目が鋭く光っていた。
「誠に失礼だが・・・こちらは?」
「私の親しいお友達です。」
さくらがそう言いながら、ハンドバックから海軍軍人の家族証を取り出して示した。憲兵は丁寧に中を改め、
「失礼致しました。」
と姿勢を正し、再び静かな敬礼をして、家族証を返した。
 上陸場の壁ぞいに歩きながら、一航が横歩きをしては港内を見、見ては横歩きをして移動していた。港内には、すぐ近くに駆逐艦が1隻錨を入れていた。その向こう、沖合いには大型の軍艦が停泊していた。
「あっ、おかあさん、ながとだよ。あれながとだよね。」
「このあいだ大神に『長門』を教わったものだから、大きな軍艦はみんな『ながと』になっちゃうのよ。
と、さくらは笑った。確かに、沖の軍艦は「長門」型ではなく、もっと旧式な「伊勢」型のようだった。そしてさらにその向こう、横須賀航空隊からは小型機が飛び立っていくのが見える。しかしさすがに、機種までは判別できない・・・・
「やっぱり戦争してるから、軍港は緊張感が違うわね。」
マリアは言った。
「・・・そう、かしらね。やっぱり。・・・海軍はあまり関係ないんだって、大神は言ってるけど。」
「そうなの?」
「それはそうよ。大陸の事変でしょ。近所にね、息子さんが陸軍の少尉だっていう人がいるけど、もう心配で仕方が無いみたい。いつ事変に行くんだろうか、それまでに終わらないだろうかって。」
「へえ。」
「そんなこと、普通の人には言えないでしょ。私だったら言えるからって、そう言うの。」
「そうなの・・・」
「ねえマリアさん、マリアさんはどう思う?今度の事変、長引くのかしら。」
「それは・・・・私、国務省に勤めてたって言っても、ただのタイピストだったし・・・」
そう、タイピストだった、のだ。胸の中でマリアはつぶやいた。

 金曜日。マリアたちは銀座に出た。大帝国劇場の跡にやってきたのだった。往時を偲ばせる物は、もう何も残っていなかった。区画さえ切り直されて、道の走り方まで変わっていた。かつて劇場が建っていたあたりには、何棟かのビルが建っていた。
「あれから、何年?」
マリアは尋ねた。
「十、・・・三年。」
さくらが答えた。
「もう、そんなに。」
「まだそれだけしか、とも言えるわね。」
「なのにこんなに変わってしまって?」
「・・・そう。」
二人は何も言わずに、しばらくその場に佇んでいた。一航が時々不思議そうに、二人をかわるがわる見上げた。


 「予定は変更しない方が良いと思います。かえって怪しまれる。」
マリアは言った。
「・・・・はい。・・・いえ。ただ、監視の人数が増えているような気が・・・」
横浜のホテルのロビーの一角、公衆電話ボックスの中で、彼女は笑いながら電話をしていた。無論、表情は話の内容を気取られないようにするためだ。部屋の電話はホテルの交換手が聞いている。公衆電話も電話局の交換が聞いているだろうが、特定の公衆電話だけを電話局でマークするのは難しいはずだ。
「・・・いつ踏み込まれてもおかしくないとか、そこまで緊迫したものは感じませんけれど・・・ええ・・・大神中佐ですか?・・・わかりません・・・ええ・・」
電話を終えると、彼女はロビーの新聞掛けから新聞を取り、ソファに座った。タバコに火をつけ、それからゆっくりと新聞を広げた。気付いての監視なのか、それとも単に外人に対するマークなのか。これまで自分は、目立った動きをしていない自信がある。会った相手は大神とさくら、それに沖縄のカンナだけだ。それでも沖縄に目立った軍の設備が無いこと、皇居、議事堂、海軍省といった東京の中枢付近の警備状況、横須賀の雰囲気、一般の商店や市場の価格といった基礎情報は掴めた。そしてなにより、李紅蘭が間違いなく大神やさくらと継続的に接触を保っていることが確認できた。「あまり来ない」というのは、「全然来ない」のとは全く違う。充分だと、マリアは思う。ナチスドイツのレニ。軍国日本の紅蘭。世界中を壊滅させるのに、結果として手を貸しかねない二人。アメリカにとって、脅威になりかねない二人・・・


 土曜の夕方。夕食を、大神夫妻とマリアは横浜のホテルで取っていた。翌朝のマリアの出港を見送るため、大神一家も同じホテルに部屋を取ったという。一航はホテルの託児施設に預けてきたというので、大神とさくらとマリアの三人で、昔話にひとしきり花を咲かせた。食事を終え、コーヒーを飲み、次にラウンジに移って少し酒を飲むことにした。ホテルの最上層にあるラウンジはすいていた。窓際のテーブルに座を占め、酒を舐めながら三人の話は続いた。
 1時間ほども話して、ふと話題が途切れた時だった。
「マリアくん。」
と、大神が言った。
「俺は君に話しておかなけりゃならないことがある。」
「はい?」
マリアは大神に向き直った。少し酔ったような表情で、大神はしかし窓の外を見たまま言った。
「今まで君が見ていた息子の一航な、あれはニセモノだ。」
「・・・・・は?」
横でさくらが、息を飲む音がはっきり聞こえた。
「本物の一航を君に、君たちに見せると・・・その、殺されるおそれがあるんでね。」
「嘘だわ。」
感情を込めずにそう言ってしまってから、マリアは今、自分自身で何もかも壊してしまったことを悟って愕然とした。もう一度さくらが、今度は大きく息を吐いた。長く沈黙が続いた。。
「・・・・まだ君も甘いね、マリアくん。」
大神はゆっくりとテーブルの上で両手を合わせながら、しかし悲しそうな声で言った。
「あの子がニセモノだというのは本当だ。本当は8歳か9歳で、子供の役者だ。お国のためになる仕事だと言って、一航の代わりをしてもらった。」
「でも、なぜ・・・?」
かすれた声でマリアは言った。
「なぜ、とは?」
「なぜ私が?」
「分らなかった。今の今まで。君が本当は何者なのか。本当にただ、さくらに会いに来ただけなのか、それとも別の目的があったのか。」
「・・・・・ハッタリだったわけね。」
マリアは目を閉じた。
「ひとつはね。もうひとつは、疲れた。」
「疲れた?」
「君を騙し続けていることと、そしてあの子に一航をやらせ続けることに。」
意味がわからず、マリアは目を開いて大神を見た。
「誰だって自分の子はかわいいさ。でも、自分の子供を守るために他人の子を身代わりに殺させるなんてことは、俺にはできないんだ。」
「殺すなんて誰も言っていないわ。」
マリアは言い返した。
「そうかな?あの子をさらって紅蘭の情報を手に入れようとして、あの子がニセモノと分ったら・・・君たちはあの子を返すかな?」
さくらがうなだれていた。
「そしてもうひとつ。俺は、これ以上君と騙しあいごっこを続けていることができん。」
大神の声は低く、静かだった。
「君は紅蘭を探しに来た。米軍に霊子兵器の情報をもたらすために。そうだな?」
マリアは答えなかった。
「そしてその他にもドイツや日本の一般的な情報を収集するために来た。」
「・・・・だとしたら?」
マリアは応じた。
「だとしたら隊長はどうします?私を憲兵か特高にひきわたす?」
「それもできる。」
大神は初めて、真正面からマリアの目を見据えた。
「俺が右手を真上にまっすぐ上げれば、それはこの女が間違いなくスパイだという合図になる。俺を見張っている俺の部下が手近な警察に連絡して、君を捕まえる。」
「・・・・でも、それはしない・・・?」
マリアも大神の目を見返して言った。
「今は、ね。」
「条件は?」
間髪入れずにマリアは聞いた。視野の隅で、さくらの腕が小刻みに震えているのが見えた。
「忘れてくれ、紅蘭のことを。」
しばらくマリアは、大神の顔を見つめた。そして小さく首を振った。
「・・・・できないわ・・・・それは・・・」
マリアはテーブルの上のグラスを取って、酒を口に含んだ。大神がそれをじっと見つめていた。
「このままでは、いずれナチスドイツは世界を手に入れようとする。レニはとりこまれてしまい、織姫は彼らに消されてしまった。」
マリアは言った。
「ユダヤの迫害もおいおい酷くなっていくに違いないわ。そして日本も・・・・大陸に生存圏を打ちたてようとすれば、それは日本がアジア一帯を支配することになる・・・・全体主義と恐怖政治が世界中にいっぱいになってしまう。それを防げるのは、今はアメリカだけ。それが現実だわ。」
「だからアメリカの為に働く?」
「そう。だから霊子兵器も、ドイツや日本に持たせるわけにはいかないのよ、絶対に。」
「だから紅蘭を?」
マリアは黙ってうなずいた。またしばらく、沈黙が続いた。前のめりに座っていた大神が丸い体をゆっくりと背もたれにあずけた。
「正義は、」
大神は呟くように言った。
「正義は人の数だけある。あるいは、人を殺めることさえ正義になり得るんだ。君は君の信じる正義を全うすればいい。それは俺も同じだ。」
そう。レニも、織姫もそうだったと、マリアは思った。
「ただ紅蘭のことだけは、これだけは駄目だ。あの兵器の情報は、もう誰にも使わせない。ヒトの精神がそのまま武器と直結するような、そんな武器は、絶対に越えちゃいけない一線を超えてしまう。」
「それはあなたの正義でしょう?」
マリアは言い返した。大神の顔が歪むのが見えた。マリアの胸に、鋭い痛みが走った。
「そうだ。・・・俺の正義でしかない。」
そう言って、大神はため息をついた。
「俺の正義でしかないから、君には全て話した。君を騙し続けることが、俺の正義とは相容れないからだ。」
「だから理解して欲しいと?」
マリアは静かに席を立った。
「隊長、私にまだ甘いとおっしゃいましたわね。その言葉、そのままお返しします。」
そして踵を返して、彼女は歩み去った。いつ大神が右手をまっすぐに挙げるか、そう考えると鼓動が早くなった。

 おそらく監視は一層厳重になったものと考えられた。マリアはその夜は一歩も部屋の外へ出ず、電話もしなかった。今応援を頼むと、逆に自分を追い込むことになりかねない。明日の出港、明日の出港だけが確実な逃走手段だった。ハンドバックの二重底に隠した青酸カリの錠剤を、ベッドサイドテーブルに置いたまま、彼女は夜を明かした。怪しまれぬようにと、あえて愛銃をアメリカに置いてきたことを悔やんだ。


 横浜新港埠頭第四岸壁に、船は定時に着岸した。先週と同じようにごった返す人ごみの中に、大神夫妻は見えなかった。走ってタラップに駆け寄りたかったが、そんなことをすれば監視の目を引いてしまう。たとえ大神がいなくとも、監視の者は複数、いや相当数いるはずだ。彼らに付け入る隙を与えてはならない。なにげなくタラップに歩み寄る風を装いながら、マリアの喉はからからに干上がっていた。ボーディングゲートでチケットを切らせ、タラップを上り始めた時、思わず安堵の息を吐いていた。船の中は日本の領土ではない。よほどのことがなければ、日本の官憲は踏み込めない筈だ。よほどのこと?・・・・アメリカのスパイが逃げようとしているのは、「よほどのこと」ではないのか?フネにたどりついてふと岸壁を振り返ると、あちこちに制服の警官が見える。2,3人ごとにかたまって、あちらこちらに立っている。
 あれはいったい、何のために待機しているのか?マリアの鼓動は早くなった。船室に入って鍵をかけ、出港まで閉じこもってしまいたかった。だがよく考えれば、船に乗り込んだということは逆に逃げ場を失ったことと同じだ。たとえ出港したとしても、大神が海軍に手を回せば、日本の領海内であれば海軍の軍艦が立ち入り検査に現れるかもしれない。全身から冷たい汗が流れて、視界が狭くなるのを感じながら、それでもマリアは甲板に戻った。出港しても浦賀水道を出ない限り、彼女の任務は終わらない。横須賀港を沖から望見するのが最後の仕事だからだ。
 はやく、はやくと心の中でせかるマリアの気持ちからすると、出港の作業は嫌になるほどゆっくりに見えた。甲板からは、岸壁やターミナルの警察官の姿ばかりが目に付いた。気がつくと憲兵の制服も見える。今にも彼らがタラップを駆け上り、甲板の自分に殺到してくるような気がして、マリアは手すりを折りそうに握り締めていた。
 どらが鳴り、タラップが外された。もやいが解かれ、タグボートに引かれてゆっくり船が岸壁を離れた時、マリアは思わず甲板に座り込みそうになった。
 助かった!
 そう叫びそうになった。その時。
 ターミナルの柱の影に、茶色い服の男が立っているのが見えた。
男の右手はゆっくりと体の脇を離れ、上へ向かっていく。マリアの心臓は止まりそうになった。
大神は、大神なら、今からでもこの船を止めることができる!


 大神の手はゆっくりと頭上に上がり、そして被っていた帽子を持ち上げると、ゆっくりと頭上で丸く振った。

 呆然と見つめるマリアの視界に、今度は岸壁の隅で、さくらと並んで立つ小柄な女性が入ってきた。地味な服装の、丸いメガネをかけた、だがそれは確かに
「紅蘭!」
マリアの叫びは声にならなかった。そして彼女は、愛用の超小型カメラを仕込んだライターをハンドバックから取り出さなかった。或いは彼女は泣いていたのかもしれない。

 船は一番美しい日本の秋を後にして、去って行った。
 










[Top]  [小説の間5]

inserted by FC2 system