天才少女は微熱気味
2月の冷たい空気の中、その事件は起こった。人によっては日常的悲劇というかもしれないし、また別のものは同じく日常的喜劇と云うかもしれない。だが、帝劇の殆どの面々にとって、それは日常的とは言い難い珍事というのが一番近かった。レニが、熱を出したのである。

自己の体調管理も任務の一環という彼女が日常生活で体を壊したのは、今まででただ一度だった。それも結局は書き割りを作るという自分に与えられた仕事をこなす過程で少々無理をしたというものであって、一日横になるとまた元気になっていた。そのレニが、ここ3日寝込んでいる。

咳が出るとか喉が痛いといった症状は見られない。昼日中は熱も下がって本人も舞台の稽古等をしたがるのだが、これが夕方から翌朝にかけてまた頭痛がしてくるらしい。

「なぁに、心配はいらんよ。言うなれば子供の知恵熱だな」
これが医者の判断だった。

「知恵熱ですって?!レニが」
かえでの言葉に、医者は答案の抗議にきた生徒を宥めるような顔で言った。
「確かにあのお嬢ちゃんは子供というには大きいが、知恵熱ってのは子供の専売特許ってワケじゃあない。賢いお嬢ちゃんでも、出るモンは出るさ」

医者は頭痛の薬さえ処方せずに出ていった。とりあえず、熱があるのは事実だ。元気が出るまで様子を看なければ。
寝台の横に椅子を置いたとき、かえではふとこの寝台を買ったときの騒動を思い出した。インテリアに一家言あるすみれや織姫が張り合って中々決着がつかなかったこと。安くつくというので業者に頼まず由里の運転するトラックで劇場まで運んだこと。二階へ運び上げるとき、階段の途中で米田が腰を痛めたこと。廊下から部屋へ入れる段階になって、タテ・ヨコ・ナナメどの向きにしても支(つか)えて入らず、一旦ベッドの足を外したこと。その回想も、か細い声に遮られた。

「かえでさん」
レニだ。かえでは氷嚢(ひょうのう)を持ち上げ、ちょっとレニの額に手を当ててから言った。
「なぁに?」
「仕事はいいの?」
「大丈夫。今かすみに代わってもらっているの」
「そう……」

布団を自分の顔半分まで掛け直すと、レニは再び問い掛けてきた。

「マリアは……どうしてる?」
「買い出しに行ったわ」
「隊長も一緒?」
「そうよ」

レニは不て腐れたように、ごろんと寝返りをうって背中を見せた。
「きっと二人でデートに行ったんだ」

かえでは思わず笑い出した。赤くしている頬をチョイチョイと突ついて窘める。
「馬鹿ねぇ。大事な大事なレニが熱を出しているときに、大神くんもマリアもそんなことするわけないでしょう?」
「でも、二人で一緒に出かけたんでしょう?……その方がいいんだ。僕なんか放っておいた方が……」

これは少し根深いかもしれない、とかえでは思った。実は何日か前にマリアから相談を受けていたのだ。最近、レニの様子がおかしいと。どうも自分を避けているような気がする。一応、かえでからもそれとなく様子を覗ってみると約束したのだが……。

「レニ、何かあったの?誰かに何か言われたの?」
相手は寝台の上で勢い良く頭を振った。乱れた髪をそっと手で撫で付けてやりながら更に問い掛ける。
「じゃあ、誰かと喧嘩した?」
「違う」
泣き出しそうな響きが混じっていた。

「レニ。何があったのか、嫌じゃなかったら教えてくれる?」
髪を撫でつづけているうちに、レニも少しずつ落ち着きを取り戻してきたらしい。といっても、あくまで少しずつで、つかえながらの、彼女らしくない話し方だった。

「僕……みんな大好きだし、皆に幸せになって欲しいと思ってる。マリアには一番幸せになって欲しい」
「うん」
「だから隊長とマリアが一緒になってくれると嬉しい。もし僕が舞台の外でも天使になれるなら、二人をくっつけてあげたいとずっと思ってた」
「そう」
「でも……僕……見ちゃったんだ」
「……何を?」
「先月、チャリティバザーの晩……食堂で隊長とマリアが踊ってた」

一月の終わり頃、ファンサービスの一環と銀座に貢献する意味も兼ねて、チャリティバザーの真似事をした。暮れにファンから集めたものを売ったり、冗談半分の出店をだしたり、花組手作りの品が当たるチャンスがある宝引き(ほうびき)もかなりの人気だった。
大勢の出入りがあるということで、劇場前の他に一階ホールと食堂を一部開放することになった。テーブルと椅子を一個所に集めて衝立てを置き、そこから先は立ち入り禁止。祭の後はテーブルを必要な数だけ元に戻し、明日大掃除をしようということになった。そのがらんどうの中を、二人で踊っていたというのだ。

「水を飲みたくなって下に降りてきたんだ。そしたら、カンテラの光が見えて。二人とも幸せそうだった……なのに僕、胸がもやもやしてきて、苦しくなって……」

多分、見回りの時間かその後だろう。大神のダンスの技量(うで)については、彼の親友が「案山子(かかし)が飛び跳ねる」と揶揄(やゆ)していたのを思い出す。自分より背の高いマリア相手では、「案山子が振り回される」が精々だろう。芸達者な女優の手にかかれば、武骨者も踊り巧者に化けるかもしれないが。

「取られちゃうって思った」
「取られる?」
「隊長に、マリアを取られちゃうって……。絶対に嫌だと思ったときに、ミスをして隠れていた衝立てを揺らして。……あとは逃げてきた」

言いながら、再び涙目になってきた。おそらく、踊っていた二人は彼女の隠れている方を見たのだろう。マリアの様子からして、それがレニだったと気付いた様子はない。ひょっとしたら、誰何したのかもしれない。相手の立場を守る為に半ば反射的に。大神か、或いはマリアが。

「僕を置いてきぼりにするマリアが嫌で、僕からマリアを取っていく隊長が嫌で……。かえでさん、僕は病気なんだろうか?それとも……僕の心は醜く育ってしまったんだろうか?もし後者なら……僕は、もう、花組にはいられない」

指の先が白くなるくらい力を込めて毛布(ケット)を握り締めてている手を、そっと包んでやる。

「レニ、それは病気じゃないわよ」
「じゃあ、やっぱり……」
「心が醜いわけでもないわ」

言われた相手は、悲しそうな光が消えないままの目で首を傾げる。
「じゃあ、これは何?」
「そうねぇ……敢えて言うなら女の子の心かしら?」
「女の子の……心?」
「私も覚えがあるなぁ〜」
かえでは時効になった悪戯を打ち明けるような口調になった。

「昔ね、憧れていた女の人がいたの。少し年上で、颯爽(さっそう)としていて。私もこんな風になりたいなぁ……って思ってた」
レニは無言で、その代わりコクリと頭を振った。
「小さい頃はずっと一緒に暮らしてたんだけど、ある時……お仕事の関係でちょっと離れたところに行くことになって。それで手紙を書く約束をしたの。最初はその土地のこととか、仕事仲間のこととかが書かれてたんだけど、そのうち内容が変わってきてね」

その文面を思い出したのか、かえでは軽く笑った。
「長くも無い手紙に同じ名前がいくつもいくつも。笑っちゃうわよねぇ。……本人は忍んでいる積りかもしれないけど、年下の私にだって、『ああ、これは恋なんだ』って分かっちゃったわ」
「こい?」
レニはまるで初めて聞いた言葉のように繰り返した。
「そ、恋。だからね、私、その恋の相手に会ってみたくなったの。そして出来れば……二人をくっつける手伝いをしたいなぁって」

今度はレニの目が栗鼠(りす)のように大きくなる。
「かえでさんも?」
「私も。それで学校の休み期間を使ってその人に会いに行ったの。もうすっかり古女房状態になってたわ。お互いボロクソに言い合うクセに、心底信頼しあって、感謝しあって。そして気付いたの。もうこの二人は、私が手出しをする段階じゃないんだって。悲しくて、寂しくて、妬ましくて、泣きたくて……混乱しちゃったわ」

かえでの言う二人が誰のことなのか、レニにもおぼろげに姿が見えてきた。どちらにも会ったことは無いけど……。そのことには触れず、ただ結果だけを尋ねた。
「かえでさんは、どうしたの?」
「仕方が無いから、次の日に帰ったわ。もともとその積りだったんだけどね。別れ際はヤケッパチで盛大に笑って、途中下車すると当ても無くブラブラ歩いて、家に着いたらコッソリ泣いて。それでお仕舞。これが私のやり方かしら。少しは参考になった?」
相手は優しく小さく頷いた。
「僕もやってみる」

かえではレニの頭をくしゃりと撫でると、勢いよく立ち上がった。
「さ〜〜ってと。今日は御赤飯炊かなきゃね。このかえでさんが腕によりをかけて作ってあげようじゃないの」
「え?どうして?」
「だって、レニがまた一つ女の子になった日よ。お祝いしなきゃ」
リトマスの酸性反応のように赤くなるレニ。
「い、いいよ。恥かしいよっ」
「遠慮しなくたっていいじゃない!お姉さんにまかせなさい。じゃあ、支度があるから行くわね」
「待って!かえでさん」

ドアのところで悪戯っぽく手を振ると、かえではレニの嘆願を無視して階段を降りていった。途中踊り場でアイリスとすれ違った。

「お兄ちゃんがね、レニにってたっくさんアイスクリーム買ってきたの。マリアがカップに盛り付けてるのに、カンナも紅蘭もつまみ食いしちゃうんだよ。早くレニに教えてあげないと、残り物しか無くなっちゃう」
アイリスは如何にも一大事を言いつけるように言うと、そのまま階段を全速で駆けていった。

「私も先ずはお相伴にあずかろうかしら」
かえではそう笑って、食堂のほうに向かっていった。
(2003年1月21日山崎あやめさんに)




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