夢の続き
春であった。 一面に桜が咲きそろった小高い丘陵の上からは、遠く東京が見渡せた。 時々風が吹いて、山道に沿って立つ桜並木の花びらを散らし始めていた。 1本の桜の大木の前に、付き添いに押された車椅子が2台、ゆっくりと進み寄った。それに少し遅れて、杖を付いた人物が、それでも1人で歩んできた。車椅子の主も、杖の人物も、女であった。車椅子を大木の根本に置かれた小さな碑のような石の前に並べると、介添えの者達は道の反対側に下がって控えた。 杖を付いた老女は、坂を登ってきたために額ににじんだ汗を拭った。彼女の、頭の後ろで束ねた髪は金髪で、深い皺の奥の目は青かった。彼女は、車椅子の二人を見、桜を仰いで目を細めた。そしてふと、今登ってきたばかりの坂を見た。 誰かが登ってくる。しかも、車椅子で。予定には無いことだった。 大柄な背広の男が押す車椅子の主は、やはりずいぶんと大柄な老女だった。頭はすっかり白髪…いや、あれはプラチナブロンドだった髪がくすんだもの?…そんな、まさか。 「…マリア?」 杖をついた老女の口から、驚いた響きの声が上がった。そして、見た目は外国人である彼女が続いて発したのは、日本語だった。 「本当にマリアなの?」 「30年ぶりかしら?元気そうね、アイリス。」 車椅子の上から、その老女…マリアは、その年齢を感じさせない声で応じた。 「だってマリア、あなた、確かもう…」 「そうね、100近いわね。」 彼女は破顔した。彫りの深い顔が年輪を重ね、一種魔女めいた風貌になっていたが、その目と口元には柔らかな笑みが残った。彼女は、車椅子を押す男を促して、驚きを含んだ笑顔で見つめるアイリスの横を通り過ぎ、並んだ車椅子に近寄った。さきほどから、二人のやりとりを見つめていた手前の車椅子の老女が、やはり笑顔でマリアを迎えた。 「マリアはん…」 「紅蘭。あなたも元気そうで良かった。」 車椅子の二人はしばらくの間無言で見つめ合った。それから、マリアはさらに車椅子を進めた。最後の車椅子の主は、あたかも周囲を渡っていく風を眺めるような目をして、眼下の景色を眺めていた。マリアは相手の車椅子に手を伸ばし、肘掛けに置かれた手の上に自分の手を重ねた。自分の手に乗せられた手の温かさに気づき、車椅子の老女は自分の手にゆっくりと視線を向け、それからさらにゆっくりと自分の手の上に乗せられた手の主の顔を見た。 「今日は特に具合がええみたいなんや。」 横から紅蘭が静かに言った。 「そう。良かった。」 マリアはそう答えた。 「すみれ。あなたとは本当に久しぶりだわ。戦争が終わった時に偶然会って…それ以来?」 マリアの声に、彼女は何も応えなかった。ただゆるやかに笑みを返すと、再び面を戻して、桜の花びらが散る様子を眺めていた。 「あなたが一番変わらないわね。」 そうすみれに話しかけてから、マリアは紅蘭の隣に車椅子を落ち着かせた。 しばらく、集った4人は無言のまま風景を眺めていた。 「本当に驚いた。マリアが来てくれるなんて、思わなかった。」 アイリスが言った。 「でも、…なぜ、今日ここに?」 「簡単な事よ。今まで私は、この場所を知らなかった。この日にあなた達がいつもここに来ることも知らなかった。」 100歳に近い老女とは思えない、はきはきとした口調でマリアは言った。 「それが、分かった?」 アイリスは、むしろ自分の方が老いた話し方をしていないだろうかと思いながら言った。 「そう。この人が現れてくれてね。」 マリアはそういうと、車椅子の後ろに立つ男を仰ぐ仕草をした。 「危なかったわね。私も、来年ここに来られる自信は、さすがに無いもの。今年だから良かった。」 「…その方は?」 紅蘭が訊ねた。 「米田さんの名誉を回復してくださった方よ。」 マリアがそう答えると、アイリスと紅蘭は「あなたが…」とだけ言い、男を見た。男は軽く頭を下げ、会釈をした。 「その仕事をするために、私の居所を探し出して会いに来てくれたの。そして、この場所と、ここにあなた方が毎年来ることを教えてくれた。」 「あなたはどうやって、そのことを?」 アイリスが男に訊ねた。 「藤枝さんに・・・亡くなる直前でした。いや、亡くなる直前だからこそ、話してくださったのかもしれませんが・・・・直接皆さんには会うことができなかったので、あの論文を発表する時には少し躊躇しましたけれど。タチバナさんにお話をうかがって、これで発表しても大丈夫、と自信を持ちましたので。」 「ええ仕事をしてくれはりましたな。うちも、あれは読ませてもろうた。」 紅蘭が言った。男は微笑した。 「そやけど、本当のところは、どうなん?」 紅蘭は続けて問うた。 「たしかに米田はんのやったことは、利敵行為でも売国的行為とかいうんでもなかったんは、あれで認めてもろうたやろ。でも・・・・」 「確かに、まだ反論はあります。」 男は低く答えた。 「もし米田中将があんなことをしなければ、日本は世界でもトップレベルの霊子兵器とそのノウハウを持ちつづけていられたはずで、それなら先の戦争も勝てただろうし、そもそも米英と戦争になどならなかっただろう、という説も根強いようです。」 老女たちは黙って、男が話を続けるのを待った。 「しかし・・・・・やはりそうは考えられない。降魔がいなくなり、霊子兵器が人間同士の戦いにしか使い道がなくなったとき、それが人間の社会にどんな影響を与えるか。」 「・・・・・レニ、やな。」 紅蘭がつぶやいた。男は話を続けるべきか一瞬逡巡したように見えた。が、マリアが小さくうなずくのを見て、再び口を開いた。 「そうです。・・・・彼女は、心から祖国のためと信じてナチスに参加した。その結果が・・・・」 それ以上は言う必要が無かった。言う気にもならなかった。 「米田さんの判断は正しかった。もしあの時、米田さんが自分もろとも全てを破壊してしまわなければ、人類の歴史は1940年の今日で終わっていたかもしれない。日本があの戦争に勝つ勝たないという以前に。」 男は静かな、しかしきっぱりとした口調で言った。 沈黙が流れた。 老女たちは、あの戦争のことを思い出しているようだった。 郷土が蹂躙されるのを座視できず、あえて沖縄の戦塵に消えたカンナ。東京大空襲の炎の中で行方不明となったさくら。戦後、戦犯として処刑されたレニ。ムソリーニに反抗したが為に、一族ごと消えてしまった織姫。そして・・・・ 「神崎財閥も米田さんに消されたと同じことやったもの。霊子兵器の生産と開発は神崎重工の主力やったものな。それを失い、そこへあの大恐慌や。」 「神崎さんが姿を消したのは、その時ですね。」 男の問いに、マリアが無言でうなずいた。 「・・・・・プライドの高い人やったから・・・・それに、米田はんの気持ちもよくわかってたし・・・いたたまれなかったんやろ、うちらと顔を会わせるのが。」 紅蘭はそういうと、隣の車椅子で風を眺めるすみれの横顔を見やった。むろん、すみれの顔にはなんの表情も浮かばず、桜の花びらが舞うさまをおだやかに眺めているだけだった。 「大神さんは、どう思っていたのかしら。」 アイリスが、眼下の風景を見たまま言った。 「それは・・・。」 男はそういうと、少しの間うつむいて考えた。そしてまた顔をあげ、言った。 「・・・戦争の時、祖父は直接、敵と相対していました。部下が倒れ、自分もいよいよとなったときは、やはりここに光武の1機もあれば、と思ったのではないかと思います。ただ、」 「ただ?」 「米田中将の考え方を一番理解していたのも祖父でした。・・・複雑な思いで死んでいったのだと思います。」 男はそう言い、小さく息を吐いた。 「お父様が戦死されて、その1ヵ月後にお母様が空襲で亡くなる。あなたのお父様は、本当に苦労なさったのでしょうね。」 男に向き直って、アイリスは言った。 「そうだと思います。私が軍に入ることに最後まで反対だったのもそのせいだと思います。が、父はあまりそのことを語りません。ただ、誰もがそうだったからだ、とだけ言ったことがあります。それに、皆さんに比べれば・・・・」 再び、沈黙が流れた。帝国華撃団が帝国歌劇団となり、さらにそれが解散されてからの日々。日本を追われた者達。自分が持つ技術と知識の存在が明らかにならないよう、名を変え、台湾に潜んだ者。仲間の前から姿を消した者。 風は柔らかく、穏やかだった。 「そういわれてみれば、あんたはさくらはんの面影があるなあ。」 紅蘭がにこにこと笑いながら言った。 「あんまり大神はんには似てへんように思う。」 男は鼻を掻いて笑った。 「はい。父は祖母に似ていたそうです。私は父によく似ていると言われますから、そうなのかもしれません。」 男は、マリアの車椅子の後ろから歩み出て、木の根本にうずくまる石の前に立った。 「私の論文が認められて以後、米田中将の墓をもっと都心に近いところに移そうとか、靖国神社に合祀しようとかいう運動も始まったようです。しかし、」 男は言った。 「あらためてここに、この場所に立ってみると、むしろここにあった方が、より米田さんらしいように思えます。」 「そうね。私もそう思うわ。」 マリアがそう応じた。そして、彼女は大きく深呼吸をした。 「・・・・・あれからのことを思うと、とても辛いことが多かった。でも、それより何倍も、あの頃は楽しかった。ほんとうに、夢のようだった。」 マリアはゆっくりと、周囲の者達を見ながらいった。 「後悔したこともあるけれど、ね。」 少し強い南風が吹いて、桜のはなびらが一群となって吹かれていった。 ふいに、 「あら、中尉。」 と、すみれが言った。マリアは驚いて目を見開き、体を起こしかけた。が、紅蘭が微笑しながら首を小さく振るのを見、また車椅子に背をあずけた。 「中尉。遅いじゃありませんこと?」 すみれはそう言い、風に向かって穏やかに笑った。 「・・・・・すみれはんは、まだ夢の中におるんやなあ。」 紅蘭が言った。 「そうね・・・・いえ、違うわ。」 マリアが答えた。 「すみれはね、私達より一足早く、あの夢の続きを見てるのよ。」 男・・・・大神市朗は、肩にかかった桜の花びらを払いながら、マリアを振り返った。 「私たち、約束してたじゃない。いつかまた、この夢の続きを、って。」 皆は、桜の花霞の向こうに広がる東京を眺めた。 南風が吹き通っていった。 春であった。
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