約束・前編






   ある家の一室。そこで会話がかわされていた。
  「よかったら、この話、考えてみてくれないか? 君とは一応親戚なのだし、息子は
   君のファンなんだ。舞台をずっと続けてもかまわない。考えてみてくれないか?」
  「…わかりました…」
  「いい返事を期待しているからね」
  「………はい………」





   大神は、巴里留学のための準備をしていた。突然聞かされた、中尉への昇進と巴里
   留学。1週間で全ての準備をしなくてはいけないので、忙しかった。
   そこに、ノックの音がした。
  「どうぞ」
   大神が返事をすると、マリアがそこに立っていた。マリアは、なぜか思いつめたよ
   うな表情で大神を見つめた。
  「マリア、何かあったのか?!」
   大神はおどろいてたずねた。2日前、支配人室で話を聞いたとき、マリアはつらそ
   うだった。しかし、少なくとも昨日と今日は、マリアはいつもと変わらなかった。
   それが、突然こんな表情をするなんて…。
  「隊長…もし……」
   マリアは静かに言った。だが、その先は言わなかった。
  「マリア…?」
   ますます、大神は心配になった。
   「いえ、なんでもありません。夜分遅く失礼しました」
    マリアは弱々しく微笑むと、部屋を出ていった。

   そして、次の日から、マリアは大神をさけるようになった。話しかけても、話をそ
   らして立ち去ってしまう。部屋に行っても、理由をつけて、部屋には入れようとし
   なかった。そんな日が3日間続いた。





   大神が旅立つ日は、あと2日にせまっていた。
   夜の見回りをしながら、大神はマリアの事を考えていた。明日の夜は、出発の前日
   なので、時<間が取れないかもしれない。そして、大神は、このまま旅立つつもりは
   なかった。もちろん、マリアときちんと話し合うつもりだった。

   大神がホールにさしかかった時。マリアがテラスにいるのが見えた。大神は迷わず
   テラスに行き、声をかけた。
  「マリア…」
   マリアは大神に気がつくと、無言で横をすり抜けようとした。大神はとっさにマリ
   アの二の腕をつかんだ。そして、2人はしばらく無言で見つめあった。
  「離して下さい…」
   先に口を開いたのはマリアだった。大神は、マリアの腕をつかむ力を少し強めて言
   った。
  「マリア、一体何があったんだ…? 聞かせてくれないか…? 俺は…こんな気持ち
   で巴里には行けない…」
   マリアはうつむいて答えなかった。大神は、だまってマリアの返事を待ち続けた。

  「隊長、わたしは…結婚するんです…」
   マリアは小さな声で言った。
   次の瞬間、大神の頭の中に、すみれの見合い騒ぎがよみがえった。あの時、すみれ
   は、自分を犠牲にしようとしていた。今度はマリアが…? そう思うといてもたっ
   てもいられなかった。
  「それは君の意志でなのか?」
  「……………」
   マリアは答えなかった。大神がもう一度聞こうとした時。床に、マリアの涙がこぼ
   れおちた。
  「マリア……」
   大神は、気がついて声をかけた。マリアは、ためらいがちに話しはじめた。
  「隊長は…ご存知ですよね、わたしの母が日本人だと言う事を…。少し前に…わたし
   の母の親戚という方がここにいらっしゃったんです…。あの日、わたしは先方のご
   自宅に招待されて…その時に…」
   大神は、やっと話が読めた。しかし、何か引っかかった。
  「でも、いくら親戚とはいえ、マリアにはいきなりの話じゃないのか…? 断らなか
   ったのか?」
   マリアは少しためらってから答えた。
  「隊長が巴里に行くと知った時、悲しかったです…。でも、隊長のためだと自分に言
   い聞かせて、わたしは、隊長をお見送りする決心がついていました。少なくとも、
   あの話を知るまでは…」
   大神には「あの話」の検討がつかなかった。マリアは続けた。
  「巴里には…帝都と同じように、霊子甲冑の部隊があると支配人からうかがって…そ
   の方々の写真も見せていただきました…。わたしは…巴里で、その女性の方々と隊
   長が一緒に暮らして共に戦うのだと思うと…隊長を待ち続けられる自信がなくなっ
   てしまったんです…。そんな時に結婚のお話があって…いっそ、そのお話を受けて
   しまえば、この気持ちから逃れられるかもしれない、隊長の事も忘れられるかもし
   れない…と思ったんです…」
  「マリア…俺がその事を知っていたら…君をこんなに傷つけるとわかっていたら…俺
   は迷わず断っていた。すまない…」
   大神は、マリアをそっと抱き寄せた。
  「隊長の事を…信じていないわけではないんです。ただ…それを知って以来…隊長の
   事を待ち続ける事に自信がなくなって…それで…。隊長がいけないのではありませ
   ん…。わたしが…」
  「俺は…巴里に行っても、君を忘れたりはしない。ただ…何年で帰れるかはわからな
   い。そして俺は今まで、待ち続ける君の気持ちを考えていなかったかもしれない。
   でもマリア、これだけは信じてほしい。巴里に行っても、俺は、君だけを愛してい
   る事に変わりはない。今の俺に、その話を断ってほしいと頼む資格はないかもしれ
   ないけれど…断ってほしい…」
   大神はマリアを抱きしめ、答えを待った。

   しばらく時間がたった。マリアは顔を上げ、言った。
  「隊長…いえ、大神さん。わたしに…大神さんを待ち続けられる力を……勇気を下さ
   0い。大神さんと何年離れていても、わたしが待っていられるように…」
   そして、大神をまっすぐに見つめた。
   大神は、一瞬、マリアが言った意味がわからなかった。が、すぐにマリアの気持ち
   を察した。
  「マリア、君の部屋へ行ってもかまわない…?」
  「はい………」
   マリアは小さな声で答えた。





  「テラスにいて、寒くなかった?」
   マリアの部屋で、大神はたずねた。
  「いえ、もう春ですし……」
   そこまで言って、大神が遠回しに何を言おうとしたかがわかり、マリアは赤くなっ
   た。
  「隊長……、お先にどうぞ」
  「じゃ、お先に」
   大神は浴室に向かった。

   大神が部屋にいない間、マリアはいろいろな事を思い出していた。初めて大神と会
   った日、刹那との戦いで助けられた事、明治神宮での初詣、2人だけのロシア旅
   行、そして、海軍に復帰する大神を見送った日。それから、1年ぶりに再会して、
   熱海ではまた命を助けられ、クリスマス公演では主役に選ばれ、横浜で2人だけの
   正月を過ごした。そして、夜の横浜港で口付けを交わした事もあった。
   いつの間にか、マリアの頬を涙が伝っていた。

  「マリア、どうかした…?」
   大神の心配そうな声に、マリアは我にかえった。バスローブ姿の大神が、心配そう
   な表情で見つめていた。
  「いえ、ただ…いろいろな事を思い出していたんです」
   その言葉に、安心したように息をつく大神。
  「あの、わたしも行ってきます」
   何となく気まずくなり、マリアは浴室に向かった。

   湯船につかりながら、マリアは大神の事を考えていた。これから自分と大神は…
   …。それを思うと、少し不安だった。いくら自分から頼んだとはいえ、不安が消え
   ない。しかし、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。マリアは浴室を
   出て、バスローブを着た。



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