憂鬱な月
月の歩みは、日ごとに遅くなるように感じられた。
物憂げにのろのろと昇った三日月を、塔の天辺の部屋の窓から、蒼い瞳の吸血鬼が頬杖をついて見上げていた。
レニはいたって退屈していた。さらに加えて、いいかげん空腹だった。
それというのも、カンナが隣国の武闘大会に出場するといって出かけてしまったからだ。
精悍な美貌の女拳闘士は、戦いに勝ったにもかかわらず、レニ専属の「食料」となることを気安く請けあい、その希有なまでの剛胆さでもって、レニとの蜜月を維持していた。
だが、彼女にも己の人生や目的というものがある。国をあげての大規模な試合とあっては、武闘家のはやる血を抑えきれずに喜々として旅立っていった。
「さっさと優勝して戻ってくるから、おとなしくしてるんだぞ」
そういってレニの頭をわさわさと撫で、いつもより多めに吸わせてやったのだった。
だが、さすがに2週間も日がたつと、レニも少々空腹が煩わしくなってきた。毎日「食事」をする必要こそないものの、その本能にも似た衝動は抑えがたいものがあった。代用に口にしていた薔薇の雫も、人で言うならお茶のようなもので、血への渇望を満たしてくれるわけではない。
「帰ったら、真っ先におまえのとこに行くからさ」
その言葉を信じ、塔の窓から隣国へと続く道を眺めて過ごしてはや幾日。待ちきれずに訪れたカンナの家は、厳重に戸締まりされたまま、灯り一つついていなかった。
「カンナ、おそいなあ…」
城主にして高貴なる魔族は、思わず子供のようにさみしげにつぶやいた。だがその瞳には、無邪気な口調とはうらはらに暗い欲望が揺らいでいた。
人の生き血を啜りたい。匂い立つような美女の震える体をかき抱き、その肌に牙を突き立てたい。舌の上でゆっくりと味わう、恐怖に泡立った血の味。この指のもたらす官能に溶け、熱く甘く熟した血の味…。
身悶えするほどの渇望を、胸を押さえてなだめながら、レニは溜息を残して無人の家を後にしたのだった。
だから、そんなレニのもとに現れてしまったマリアは、まったくもってタイミングが悪かったと言えよう。
いつも眺めている道を歩いてくる長身な人物は、待ちかねたカンナではなかった。決意と闘志を漲らせ、唇をひき結んだ、緊張した面もちの短い金髪。男物のコート、タイで詰めた襟元にズボンという着衣にもかかわらずそれが女性だとわかったのは、服の下に隠しきれないやわらかな体の線と、白雪のような美貌のせいだった。
彼女が警戒しながら城に入ってくるのを、レニは黙って眺めていた。思わぬ退屈しのぎができそうなことに喜びながら。
「見つけたわ、レニ。この忌まわしき吸血鬼め!」
ドアを開けて踏み込むなり、女はコートの内側から銀の杭と鎚を取り出し、身構えた。
「今こそ、引導を渡してくれるわ!覚悟!」
地を蹴って飛びかかり、胸に突き立てたはずの杭は、空を切って床石にがちりと当たった。
「おまえは誰?」
いつのまにか背後にまわっていたレニは、さっぱり動じた様子もなく、平坦な声で尋ねた。女は舌打ちしながらも素早く立ち上がり、杭を構えなおした。
「私の名はマリア・T・ヘルシング。おまえと戦って敗れた初代ヘルシング教授の孫よ」
「ヘルシング…?」
レニは小首をかしげた。
「忘れたとは言わせないわ!」
「そういえば昔そんな男がいたようにも思うが…ボクに刃向かった下賎な人間のことなどいちいち記憶してはいないよ」
「傲岸な…!おまえに敗れて命を失った祖父の無念、思い知るがいい!」
再びマリアが突進した。だが、杭の先は吸血鬼の体に触れることもなく空を穿ち続ける。レニはふわりふわりと揺らぐようにかわし、すとんと窓辺に舞い降りた。
「遅い…。銃でも持ってきたほうがよかったね」
息を切らせるマリアを見下ろし、気の毒そうに言ってレニは微笑した。
「お前も祖父と同じ運命をたどるがいい…」
吸血鬼の眼が蒼白く光った。
「くっ…!」
マリアが体を硬直させた。杭を握りしめた手が、ふるふると震える。
「ほう…おまえも大した精神力だ。ボクの魔眼に対抗しようなんて」
一瞬細めた眼が、さらにかっと見開かれた。
「これならどう?」
「ああっ…」
端正な顔に苦悶の表情が浮かぶ。こわばった指がついにゆるみ、杭と鎚を足もとにごとりと取り落とした。
膝をついてくずおれたマリアに、レニがゆっくりと歩み寄る。
「それでもまだ意識を保ってるなんて…素敵だ。強靱な精神は尊敬に値するよ。こんな短期間に二人も会えるなんて驚きだな…」
細い顎に手をかけ、仰向かせた。
「おのれ…!」
マリアは歯がみをして、震える手を杭にのばそうとしたが、射るようなレニの眼光に再び呻いて脱力した。
「ボクの命を狙うなんて、大それたことをしたおまえの罪は重い。…でも…」
汗の光る額に張り付いた金髪を、レニが指先で弄ぶようにして整える。
「ただ殺してしまうには、惜しい美しさだ……」
苦しげに半ば閉じられた瞳は、深い翡翠の碧だった。ぐったりとうなだれた白鳥のようなうなじを食い入るように見つめながら、レニがゆっくりと襟元のタイをほどいていく。
「じっくりお仕置きをしながらいただくとしようか…」
「こ、殺せ…!おまえの牙にかかって、生ける屍やあさましき吸血の徒になるくらいなら、今すぐ死んだ方がましだわ…!」
マリアは喘いだが、すでに声に力がこもっていなかった。
「ふふ…感じるよ…怒りと屈辱にたぎる血の匂い…こんなに鮮烈なのは久しぶりだ…。きっとおまえは長く楽しませてくれるだろう…」
大きくはだけられた胸元には、服に押しこめられて寄せられたふくらみが深い谷間をつくっていた。抑えがたい情欲に、息苦しいほどだった。鎖骨のくぼみの少し上のあたりにねらいを定め、レニはうっとりと唇を寄せた。
ふと、カンナの顔が浮かんだ。屈託のない、あたたかな笑顔。
(もう他の人間は襲うなよ。いいな…)
動けないままのマリアがいぶかしむほどに、レニはたっぷりと躊躇した。
長々と逡巡したあげく、レニは決断した。
(カンナが遅いのが悪いんだ。きっとボクのことなんか忘れて戦いに夢中なんだ。知るもんか)
首筋に冷たい牙が差し込まれるのを感じ、マリアは絶望的な呻きをあげた。
「おお〜い、レニ!帰って来たぞ〜!」
旅装も解かないままの姿で、カンナは城門をくぐり、重い扉を押し開けた。
「遅くなって悪かったな!腹減らしてねえかって心配で、これでも急いで帰ってきたんだぜ!」
声をはりあげながら、誰もいない薄暗い回廊を進む。だが、さっぱりいらえはなく、カンナは首をかしげた。
「いねえのかな?ひょっとして入れ違いになったとか…」
呟きながら長い螺旋階段の下に来たとき、拳闘士の鋭敏な耳が、かすかな声をとらえた。
低く、悲痛な女のうめき声。カンナは嫌な予感がして、荷物を放り出し階段を駆け上った。
声は少しずつ近くなってくる。塔の最上部のドアの向こうから、それはかすかな灯りとともに漏れていた。カンナは足音を忍ばせて近づき、ドアの隙間から目を凝らした。
暗い部屋の奥で、天蓋つきの豪奢な寝台が、白いレースやゴブラン織りの金糸を月明かりに光らせていた。その上に、若い女が一人、仰向けに両手を広げるようにして敷布に張り付いている。よく見ると、その手首には手枷が細い鎖をのばしてはめられていた。女は半裸で、男物のシャツをこれ以上なくはだけ、短い金髪を光輪のように枕に広げていた。
その上に、吸血鬼の小柄な体が寝そべって乗っていた。女の豊かな胸をつかみ、うす桃色の突起を牙と舌先で執拗になぶっている。あいたほうの手は長い脚の付け根に潜ってうごめいていた。
ぐったりとした女の声は、今やすすり泣くように震えていた。
「ああっ…いや……もう、やめて…」
聞く者の胸を疼かせるような、苦悶と悦楽にかすれたせつなげな声。
「ダメだよ…もっと、もっと、美味しくなるまで…たっぷりかわいがってあげるから…」
仰天のあまり声もなく見入っていたカンナだったが、女の細い悲鳴にかぶるようにレニがのど元で牙を剥くのを見て、声をはりあげた。
「おい!やめろ!」
レニは文字通り飛び上がった。
「かっ、カンナ!」
弾かれたように女の上から離れ、ぴんと座り直す。
「いつ帰ったの?」
「たった今だ。これはいったいどういうことだ?説明してもらおうか」
レニは青くなり、次には紅くなり、また青くなった。カンナは咳払いして顔をそむけた。
「とりあえずなんか着ろ。眼のやり場に困るぜ。そっちのお嬢さんにもな」
「マリアは吸血鬼研究の権威ヘルシング教授の孫で、ボクを退治しに来たんだ。聖水につけた銀の杭と鎚を持って襲ってきた。これは正当防衛だよ」
ブラウスだけを羽織って寝台に座り、レニは淡々と抗弁した。だがカンナは腰に手を当てると、息も絶え絶えのぐったりしたマリアと、擦り傷の見える手枷を見やって言った。
「正当防衛ねえ…」
皮肉な声の調子に、レニはうなだれ、やがてむっとしたように顔をあげた。
「カンナが悪いんだ。ボク、お腹がすいて死にそうだったんだから。どうせボクのことなんか忘れてたんでしょう」
「おいおい」
それを言われるとカンナも弱かった。
「そりゃあまあちょっと遅くなったのは悪かったけどさ…他の試合に延長戦が多かったもんで…あたいだって気にしてたんだよ」
「ほんとうは迷惑だと思ってるんだ」
「だからあ、違うってば!」
レニはむっつりと表情をなくして押し黙っていた。気まずく停滞した空気に、カンナは腕を組んでふうっと息を吐いた。
「ああ、悪かったよ。おまえがつらかったのはわかったから。とりあえず、未遂ってことで…ん?」
首をのばしてのぞき込むと、マリアの首筋にはすでに何度も穿ったような噛み痕がくっきりとついている。
「なんだよ…もうたらふく食ってんじゃねえか。やれやれ」
呆れたような視線に、レニはまた神妙にうつむいた。
「とにかく、このお嬢さんはおまえのそばに置いとけないな。離してやりな」
「ダメだ。自由にすればまたボクの命を狙うに違いない。死ぬまでこうしておく」
「そりゃあんまりじゃねえか?」
「カンナはボクが殺されてもいいの?やっぱりボクみたいな吸血鬼はいないほうがいいんだ」
「拗ねるなよ!…まったく…。とにかく、こいつはあたいが連れてくぜ。おまえを襲わないように説得してみるよ」
カンナは易々と細い鎖をちぎると、自分と同じくらい長身な女の体を敷布にくるんで抱きあげた。
「待ってカンナ…!」
ついいましがた、まさにマリアの血を吸わんとしていたところを邪魔されたレニは、物欲しげにカンナと、カンナの腕のなかのマリアのうなじを見比べた。
「その…ちょっとだけ…」
「だ・め・だ!」
にべもなくカンナは言った。
「約束を破ったんだからな。ちょっとは反省しろ!」
荒々しく足でドアを閉めると、カンナは階段を降りて去っていった。
「カンナのばか!」
ドアに駆け寄ってレニは叫んだが、返事は帰ってこなかった。
「ううっ…私は…いったい…」
「気がついたか?」
ちょうど自宅の戸締まりを開けているところで、マリアは眼をさました。
「ひどい目にあったな、あんた。ええと、マリアっていったかな?どうだい、立てるか?」
「ええ、ありがとう…」
さしのべた手につかまって、よろよろと立ち上がったものの、またすぐに腰が抜けたようにふらふらと座り込んだマリアに、カンナはレニのヤツ、と小さく呟いて舌打ちした。
「あなたは…?」
「あたいはカンナ。拳闘士だ。ここはあたいの家だから安心しな」
「わりい、ちょっと家を空けてたもんでな。埃が貯まってるけど」
寝台にマリアを座らせ、服を着せかけ、湯を沸かして茶を入れてやる。その間、マリアはぼうっとしていたが、だんだん己を取り戻したようで尋ねてきた。
「どうやってあの吸血鬼から私を助けてくれたの?」
「どうってべつに何も…。あいつはなんていうか…友だちみたいなもんだからさ」
「と、友だち…!?」
「いやあ、あいつに、他の人間は襲わないって約束であたいの血を吸わせてやってるんだ。なのにあいつときたら、ちょっと留守にしただけで辛抱のないっていうか…」
「なんですって!!??」
マリアは目を剥いて大声をあげた。
「無茶だわ!」
「はは…あいつもそう言ったけどさ。無茶だって。でも大丈夫だよ。あたいはこのとおりガタイもあるし、しっかり食ってスタミナつけてるしな」
「そんなことじゃないわ!あなた知らないの?吸血鬼に襲われた人間は人間ではいられなくなるのよ!」
「へっ?」
今度はカンナが瞠目した。
「吸血鬼に襲われたものは、己をなくし吸血鬼のしもべとなって生ける屍のようにさまようか、同じように人の生き血を啜る化け物になってしまうのよ」
「そうだったのか?うひゃあ…そりゃ大変だな……でも、あたいなんともないぜ」
けろりと言う拳闘士に、マリアは信じがたいものを見るようにぱちぱちと瞬きした。
「そんなまさか…」
「このとおり、太陽の光も平気だし、ニンニク入りの飯はうまいし、元気いっぱい絶好調だぜ。きのうも隣の国の武闘大会で優勝してきたばっかりさ」
「…ごくまれに、そういう耐性がある人間がいるのかもしれないわね…あるいは、人並みはずれた強い気力を持っている人間なら…」
マリアは指先を頬に当て、むつかしい顔をして考え込んだ。
「あんたも大丈夫そうじゃないか」
「私はヘルシングの末裔よ。吸血鬼と戦うために己を鍛えて来たのだもの。常人とは比べないでほしいわ」
吸血鬼ハンターの女は、胸をそびやかしてきっぱりと言った。だが、ふいにその表情がくもり、揺らいだ。
「でも…」
マリアは啜っていたお茶のカップを置いて、カンナを上目遣いに見やった。
「やっぱり…ダメだめだったみたい…ああ…なんて事…この私が…こんな…」
「おい、どうしたんだ、具合でも悪いのか?」
顔を覆って震えるマリアを、カンナが心配そうにのぞき込む。
「ごめんなさいカンナ!あなたは大丈夫なのよね?…ほんの、ほんの少しだけ…お願い…!」
ふいに、マリアが抱きついてきた。その唇の隙間から白い牙がのぞいて、レニに与えたのと反対側のうなじに食い込むのを感じ、カンナは溜息をついてぼりぼりと頭を掻いた。
「二人はちょっとキツいかなあ…」
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