上海小夜曲 (1)
新次郎と昴が上海の港に降り立ったのは、ちょうど夕暮れ時にさしかかる頃だった。 「なんだか、紐育みたいですね」 黄浦江沿いの外灘(ワイタン)に居並ぶ、アールデコ様式の高層ビル群を見上げて、どこか懐かしそうに新次郎が呟く。 「東洋のマンハッタン、東洋の巴里、東洋の真珠…そして掃き溜め、退廃の都、魔都…どれも上海の別名だ」 暮れなずむ異国の街並みを見やり、昴が隣に立って言った。 「租界という名の植民地が複雑に入り組んで、あらゆる民族が溢れかえっている。遠目には華やかだが、何が起きても不思議はない無法の街だ。持ち物を摺られないように気を付けろよ」 昴の言葉に、新次郎は慌てて旅行鞄を胸にしっかりと抱えた。 「それに、君は可愛い顔をしてるから、攫われて売られたりしないようにね」 「ええっ…!?あのう…冗談…ですよね?昴さん」 困惑気味の新次郎に、昴はからかうような笑みを浮かべて言った。 「昴のそばを離れなければ、大丈夫だよ」 「はいっ!それならもう、絶対離れませんから!」 うれしそうな新次郎の笑顔に、昴は幾ばくかの複雑な思いを噛みしめた。 下船した客たちを目当てに、人力車の群が押し合いへし合いしながら詰め寄ってきて、見る間に二人は歩きにくくなった。 「黄包車(ワンパオツァ)と言うんだ。乗っていくかい?」 「あ…ええと、タクシーがあるなら、そっちのほうがいいです。なんだか人に引っ張ってもらうなんて、申し訳なくて」 新次郎の答えに、昴の表情をいとおしげなやさしさがかすめる。 「馬鹿だな…彼等はそれで生計を立てているんだ…まあ、君の希望どおりにしよう」 混雑の隙間を、新次郎の手を引いて風のようにすり抜けると、昴は路肩で蒸気タクシーを呼びとめた。そして乗り込む時に、そっと周囲に目を走らせるのを忘れなかった。 「…さて、どこへ行こうか」 これからの長い時、二人が幾度も繰り返す言葉の、それが最初だった。 その時、まだ二人は、西海岸はロサンゼルスの小さなホテルにいた。レストランでのランチを終え、コーヒーのおかわりをゆっくり飲んでいる時だった。 「昴さんと一緒ならどこでもいいですよ」 にこにこと幸福そうに微笑む新次郎の答えに、昴は小さく苦笑した。 「…うれしいが、もう少し具体的な言葉が欲しいな。昴は問う…君はこれから何かやりたいことがあるか、と…」 「ええと…そうですね、サニーサイドさんにお金を返すために、働きたいです」 ある程度予想はしていたものの、律儀に繰り出された言葉に昴は些か呆れ気味に顔をしかめた。 「そんなもの放っておけばいいのに…サニーサイドにはそのくらいの金額、痛くも痒くもないよ」 ぞんざいな口調に、新次郎は仰天して反論した。 「だって!大金ですよ!三年分の旅費ですから」 「なら僕が支払おう。僕のために使われた費用でもあるからね」 「駄目です!借りたのはぼくですから。昴さんにお金を出してもらうわけにはいきません」 昴は新次郎を真っ直ぐ見据え、厳しい声で言った。 「新次郎、今後トラブルになりたくないので最初にはっきりしておこう」 ゆらしていた鉄扇をぴしりと閉じ、つきつける。 「これから二人で暮らしていくなら、そのために必要な金銭を持っているのは昴のほうだ。昴の資産は昴の能力で築いたものだから、昴の好きなように使う。それがいちいち君の沽券に関わるとでも言うなら、僕たちは一緒にはいられないよ」 「あっ、いえ、そんなわけでは…そんなふうには思ってません」 「ならばいい。…じゃあサニーサイドには僕が払うということでいいね」 「駄目です」 「新次郎…」 昴が額を抑えて俯く。 「生活費は、すみません、当面はお世話になります。でもぼく、サニーサイドさんにはっきり約束したんです。少しずつでも返しますって」 肩を落とし、昴は軽く溜息をついた。 「昴は言った…やれやれ、と。…お互い頑固なのは承知の上だが…ここは昴が折れるべきなんだろうな」 カップを持ち上げ、コーヒーを啜って一呼吸置くと、穏やかに言った。 「まあ、確かに何もしないでぶらぶら過ごすなんて君にはできないだろうし、好きなことをやればいい」 「ありがとうございます!」 「礼を言うには…」 その時、ふと、奥のテーブルで新聞を読む男の目線を感じ、昴は言葉を止めた。 「…新次郎、紐育への手紙はどこから出した?」 「え、あの、ホテルのフロントから…」 「我らがサニーサイド司令は、どうやらそんなにやさしくはないようだよ。金銭はともかく、僕たちの能力を手放す気はないらしい」 剣呑な昴の瞳に、新次郎にも緊張が走る。 「え…」 「振り向くな。何も気づかない振りをしろ」 素知らぬ風に、コーヒーの残りを飲み干すと、昴はゆっくりと立ち上がった。 「僕はここの支払いを済ませてくるから、君は先に部屋に戻って荷物をまとめるんだ」 「ぼくも昴さんと一緒に行きます」 傍らに寄り添う新次郎に、昴が短く答える。 「一人で大丈夫」 「昴さんと一緒がいいです」 「時間の無…」 新次郎を見上げた昴は、言いかけて沈黙した。まるい瞳には、かすかに恐怖にも似た切羽詰まった色があった。 「…わかった。一緒に行こう」 宿泊費用は先に支払ってあったので、気兼ねなく非常口からホテルを抜け出した。二人は帽子を目深に被り、昴は荷物から少女の服を取り出して着込んでいた。 「東洋へ行こう。白人社会の中では、僕たちは目立ちすぎる」 そう言って、昴は捕まえた蒸気タクシーを港へ向けて走らせた。 シートで落ち着かなげに手を握りあわせながら、新次郎が生真面目一本槍の調子で説きかける。 「ねえ、昴さん、サニーサイドさんに会って話し合いましょう。きっとわかってくれますよ」 「甘いな、新次郎。それが可能なら、向こうも通常のコンタクトをとってくるはずだ」 にべもない昴の言葉に、新次郎は押し黙るしかなかった。 そのまま、二人は港まで言葉を交わさなかった。 ロサンゼルス港の雑踏のただ中、出航予定表の文字を辿って、昴は言った。 「東洋に向けてすぐに出航する便が二つある。一つは上海で、一つは…日本だ」 「じゃあ、上海に行きましょう。ぼく、一度行ってみたかったんですよ」 昴がほんのわずか言い淀んだ間を埋めるように、新次郎は即答した。そしてようやく笑顔を満面に浮かべてみせた。 故国へ戻れば、家族を思わずにはいられない。その家族が、昴との人生をこころよく認めてくれないとすれば、日本という選択肢は避けて然るべきと思えた。ともあれ、昴と一緒なら逃避行の道行きも心躍るものだろう。 そうして、二人は太平洋上の人となったのだった。 南京東路の入り口で昴が車を止めたのは、共同租界で一番高級とされる、キャセイ・ホテルの前だった。 装飾の見事なアールデコ様式のロビーで、六階のスウィート・ルームを当たり前のように指定しながら、昴は澄ました顔で言った。 「昴は別に贅沢が好きなわけではない。必要ならサバイバルにも堪えるが、そうでなければ快適な方を選ぶ」 しかし新次郎はかすかに違和感を感じていた。五番街に住み慣れた昴なら、別におかしい選択ではないだろう。だが、この三年、頑ななまでにホテルの利用を避け、新次郎から逃げていた昴ならありえない。追われる身の警戒を忘れていないなら、昴はいったい何を考えているのか、と。 窓からは、黄浦江の夕景色が見えた。セピア色にけぶる空と水面を、ゆっくりと船が行き過ぎていく。 「わあ…綺麗ですね」 「この景観は、ここのホテルで得られる大きな贅沢の一つだよ。そうそう、ハルピンから運ばれるキャビアも有名だ。頼んでみるかい?」 「えへへ…こんな高級な部屋、紐育の昴さんの部屋以来です。ちょっと緊張しちゃいますね」 新次郎は瞳を輝かせながら、豪奢な部屋の調度にふれてまわった。 「わひゃあ、すごく広いバスルームですよ!昴さん、一緒にお風呂に入りませんか?」 長い船旅で、ようやくこの手の臆面もない状況に慣れてきた昴は、どうにか赤面せずに平静に答えた。 「昴はやめておく。ちょっとここの新聞に目を通しておきたいんだ。君はゆっくり入っておいで」 「はあい」 些か残念そうな新次郎がバスルームの扉の向こうに消えると、昴は新聞を置いて立ち上がった。 「はあ…、いいお湯でした。…昴さんも…」 バスローブのベルトを結いながら出てきた新次郎は、部屋を見回して昴の姿を探した。 「昴さん…?」 何事もないように、読みかけの新聞紙がテーブルに開かれていた。ベッドサイドのトランクもそのままで、開けっ放しの窓辺にはカーテンが夕風になびいている。 しかし、広々とした部屋のどこにも、昴はいなかった。 すうっと新次郎の背中から血の気が引く。心臓の鼓動が急に速度を増し、視界が暗く陰った。ぐらぐらと足もとが揺らぎ、気の狂うような焦燥が新次郎を駆り立てた。 「昴さん…!昴さんっ!」 広い部屋を走り抜け、廊下へと繋がるドアに飛びかかる。 「昴さん…!?」 激しい勢いでドアを開けた途端、入って来ようとした昴とぶつかりそうになった。 「どうした、新次郎」 「昴さん…!」 驚いた様子の昴は、骨が軋むほどに強く抱きしめられた。 「…姿が見えなかったから…心配で」 「…悪かった。下の階の銀行に用があったんだ」 頬に押し当てられる濡れた髪を冷たく感じながら、昴はやさしく宥めるように背中を叩いた。 「昴さん…また、どこかへ消えてしまったんじゃないかって…」 「…馬鹿だな、新次郎。昴はもうどこへも行かない。ずっと君のそばにいるよ」 小柄な昴の体にすがり、新次郎は子供のように怯えた声を絞って言った。 「…怖かった…」 再会してからこのかた、新次郎は片時も昴のそばを離れようとしなかった。それが、一瞬の油断が長きに渡る孤独と喪失に繋がった、苦しい経験に起因するのは明らかだった。 三年間血を流し続けた新次郎の傷の深さを、昴は思い知った。その傷をつけたのは自分なのだ。 深く口づけられ、そのままベッドに運ばれても、昴は逆らわなかった。むしろ新次郎を安心させるように、自ら貪欲に求めてみせた。 窓から差し込む上海の夕日を浴びながら、二人はただ互いの名を呼び合い、相手が腕の中にいることを確かめ続けた。 「起きろ、新次郎」 疲れ切った新次郎が気だるげに目を開けると、昴が枕元に立っていた。シャワーを浴びて着替えたとおぼしく、いつものスーツをきっちりと着込んでいる。 「遅くなってしまったが、食事に行こう。上海は蟹が名物なんだが、残念ながら季節ではない。そのかわり本場の上海料理を賞味しよう」 「あ…はい」 見れば、窓の外はすっかり陽が落ち、空と海の境目もわからないほど暗くなっている。新次郎は慌ててベッドから這い降り、服に手をのばした。 「その前に、着替えが必要だな」 「え…あの、もう着替えましたけど」 鉄扇を顎の先に当てて佇む昴は、新次郎を足の先まで眺め下ろして得意そうに微笑んだ。 「いいから、昴に任せておけ。君の上着は、長旅で些かくたびれているようだからね」 「昴は問う…似合うか…と」 新次郎が手持ち無沙汰に羽扇子などをぼんやり眺めていると、店の奥から、ライトブルーのシルクのチャイナドレスを着た昴が現れた。 胸元にレースのハンカチを挟み、華奢な襟首と耳もとには宝石が煌めいている。深いスリットからは、光り輝くような脚がすらりと覗いていた。 「わひゃあ、昴さん、綺麗です!」 胸の前でぐっと拳を握り、新次郎は力を込めて言った。 「えへへ…惚れ直しました」 いとおしげに頬にふれ、唇にキスを落とす。 「ふふ…君も、とても素敵だよ」 昴の見立てた洒落たスーツを着込んだ新次郎は、照れくさそうに頭を掻いた。 「そ、そうですか…?」 「ああ…何度でも、恋に落ちてしまいそうだよ…」 小さなつま先で背伸びをして、昴がキスを返した。 ただどこまでも甘い、恋人同士の空気だけを、二人の間に守るように閉じこめる。 「さあ、夜の上海に繰り出そう」 昴が嫣然と微笑んだ。 上海料理の老舗、上海老飯店へと車を乗りつけると、昴は上海語をすらすらとしゃべり、最上級の個室へと案内させた。 「上海料理の特徴は、砂糖や醤油をたっぷりと使った濃い味付けだ。魚介類を煮込んだ紅焼料理がここの名物だよ」 料理の説明をし、新次郎の好みを聞きながら、次々と昴が注文していく。豚肉やウナギの皿にくわえて、フカヒレやツバメの巣などの高級食材を使った料理も惜しげもなく運ばせ、二人でおなか一杯になるまで食べた。 「…最後に甘いものでも頼むかい?」 「はあ、もう食べられません。すごく残念ですけど」 腹を押さえて椅子の背にもたれる新次郎を、眼を細めて見やりながら、昴は呼び鈴を鳴らしてボーイを呼んだ。 「じゃあそろそろ出ようか」 現れたボーイに、昴は何やら哀切を帯びた声と表情で訴えかけ、ドル紙幣を数枚握らせた。するとボーイは意味ありげな笑みを浮かべ、二人を厨房へと案内した。 「どうしたんですか?昴さん」 「いいから、ついておいで」 もうもうと湯気の立ちこめる中、食材や調理器具でごった返す巨大な厨房を縫うようにすり抜け、食材搬入用の裏口へとたどり着くと、黒いリムジンが待っていた。 「謝謝儂」 ボーイに向かってひらひらと手を振ると、昴は優雅な物腰で車に乗り込んだ。 「浮気の現場を押さえようと、夫が表玄関で待ち伏せてるから、うまく逃がしてくれと言ったんだよ」 「はあ?」 ぽかんと口をあける新次郎を見上げ、昴はころころと楽しげに笑った。 「はは…面白かっただろう?僕は富豪の人妻で、君はその愛人というわけだ。上海老飯店の厨房も見られたしね」 「…昴さん…あの…」 「さあ、次はジャズバーへ行こう。上海といえばジャズの本場だ。昴は興味がある」 車は居丈高にクラクションを鳴らし、人力車と人の波を掻き分けて南京路に入っていった。 「ここはアジア一の音楽の都でもあるんだよ。租界のクラブやダンス・ホールで、本場の技法とスピリットを学ぼうと、多くのミュージシャンがしのぎを削っている。名だたるジャズメンが出稼ぎに来ているのを目当てに、皆この上海に集まってくるんだ」 昴が蘊蓄を傾ける間も、新次郎は妙にはしゃいだような昴の様子が気になっていた。 「新次郎…浮かない顔をして、どうしたんだ…?」 「…昴さん…」 心配そうな新次郎の表情を見返し、昴はふいに運転手に向けて声をかけた。 「停汽車」 車を降りて、新次郎の腕に手を絡める。 「少し歩こうか」 夜も更けてきたというのに、南京路は人混みでごったがえしていた。交通整理のインド人、白系ロシア人とおぼしき娼婦、便衣の裾を翻して急ぎ行く中国人、そして、あてどなく流れ着いた日本人。きらびやかなネオンの洪水の中をあらゆる言語が飛び交っていた。喧騒に満ちた春の宵、アカシア並木の満開の花吹雪が、二人の上に降りそそぐ。 そこには、どんなエトランゼも包み込んでしまうような、深く不思議な郷愁があった。 「せっかく上海に来たんだ。楽しもう、新次郎」 踊るように軽やかな足取りで、昴は新次郎と腕を組み、南京路の繁華街を歩んだ。 弾けるドラム。 ピアノが踊り、トランペットが謳歌する。 そして噎び泣くようなサックス。 名だたるホールの前を行き過ぎ、落ち着いた並木道に面して建てられた店のドアを開けると、スイングジャズの旋律が出迎えた。 照明を落とした店内では、多くの外国人客が、ジャズバンドの生演奏を聞きながらグラスを傾けている。 柱の影の席を選び、二人は腰掛けた。黒檀のテーブルにはランタンが灯り、ひっそりと互いの顔を照らした。 「懐かしい曲ですね」 「ああ、ハーレムで聞いた曲だ…」 流れるスタンダードナンバーが、耳に心地よい。繊細なグラスに注がれたカクテルをゆっくり飲みながら、ジャズのメロディーを楽しんだ。 「踊ろうか、新次郎」 にぎやかな曲が始まったとき、ふいに昴が立ち上がった。 「ええっ?」 見れば、ホールの中央の空間で、何組かのカップルが楽しげに踊っている。新次郎の手を取り、その仲間入りをするべく昴が導いた。 おぼつかなげに体を動かす新次郎の前で、ブロードウェイのミュージカルスタアは鮮やかなステップを披露した。黒髪がさらりとなびき、華奢な指先の表情までが美しい。 「もっとリズムに乗ってごらん…そう、上手だよ、新次郎」 繋いだ手を持ち上げてくるりと回ると、昴の笑顔に笑い声が弾けた。 やがて演奏はスローなナンバーに変わった。 ウッドベースの大人びた音に乗せて細い腰を抱くと、昴は新次郎の肩に顔を埋めるようにしなだれかかった。 「昴は言った…とても、楽しい…と…。まるで夢のようだ…」 吐息とともに、昴が呟く。 「昴さん…もしかして…もう駄目だって、思ってるんじゃないですか…?」 小さな耳元に、新次郎が低い声で囁いた。 「サニーさんが本気でぼくたちを追ってるんなら…逃げ切れるはずがないって…」 「黙って、新次郎」 ふわりとキスをして言葉を遮ると、昴はしなやかに腕を伸ばして新次郎の首に絡めた。 「もっと、強く抱いてくれ…今は、それだけでいい」 ああ、この恋は。 昴をきつく抱きしめ、新次郎は眼を伏せた。 なぜこんなにも、せつないのだろう。 ただ、愛しい人とともにありたい、それだけなのに。 そんなささやかな望みも許されぬほど、自分たちは罪深いのだろうか。 密やかに更けていく、上海の宵闇の片隅で、ぴったりと溶け合うように体を寄せ、二人はジャズの調べに漂っていた。
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