タイガー先生の話






 タイガー先生とその奥さんの話を聞きたいというのはあなたですか?
 はい、私はイギリス人ですが、十年以上日本で暮らしたので、この通り日本語は不自由なく話せます。貿易商をやっていましてね、欧州に向けて日本の陶磁器を扱っています。伊万里や有田はとても人気があるのですよ。古伊万里ではやはり柿右衛門様式が喜ばれます。
 ああ失礼、タイガー先生の話でしたね。ええ、とても不思議な話なんです。なのであまり他人に話をしたことはないのですが、どうか私を変人だと思わないで聞いていただけますか。


 話は二十年ほど遡ります。タイガー先生に初めて会った時、私は丁度十二才でした。場所はウィンダミアです。ご存じですか?…そう、レイクディストリクトです。ロンドンからオクスンホルムで乗り換えて汽車で三時間ほどの…あそこは世界で一番美しいところですよ。かの詩人ワーズワースの愛した、森と湖の地方です。どこをどの季節に切り取っても絵になります。そこに別荘がありましてね。私は毎年、夏の間は家族で過ごしていたのです。湖でボートに乗って、釣りをして、森を探検して…楽しいバカンスでした。湖には白鳥が憩い、どこまでも続く石垣に囲われた牧草地には、様々な種類の羊がのんびりと草を食んでいます。機会があれば是非一度訪れてください。
 タイガー先生はそこで剣道を教えていた日本人です。町はずれに小さな道場を建てて、…生徒はそれほど多くはありませんでしたから。そもそも小さな町ですしね。でも、子供たちに大変人気のある先生でした。日本人なのになんでタイガー先生だったのか、よく覚えていないんですが、みんなそう呼んでいました。何て言ったかな…面白い奇声をあげて驚くのがおかしくて、子供たちがよく悪戯をしかけたんですよ。もちろん、度が過ぎると叱られましたけどね。
 とても若い先生だったんですよ。私には当時ハイスクールの兄がいたんですが、その兄より年下に見えるくらいでした。背もそれほど高くなく、黒い眼が丸くて大きくて。真面目な先生でしたね。そしてとても明るくて、面倒見の良い人でした。
 私は先生の道場に通うのが楽しみでした。私が長じて日本で仕事をするようになったのは、もしかしたら先生の影響もあったかもしれませんね。私は決して出来のいい生徒ではなかったんですが…、当時は背が低いのがコンプレックスの、ひ弱な子供だったのですよ。でも、タイガー先生はそんな私にもとても丁寧に指導してくれました。生徒は子供が主でしたが、日本文化に興味を持った大人もたまに混じっていたでしょうか。でも、精神主義的な押しつけがましい標語などはありませんでした。ただ先生は、己を信じろ、といつも言っていました。

 東洋人の年令というのは本当にわかりにくいですね。とても若く見えるタイガー先生には、もっと若く見える奥さんがいたのです。
 不思議なのはこの奥さんなんですよ。初めて会った時は、少年かと思いました。短いズボンをはいて、ネクタイをしていて、チビだった私と変わらない背丈でした。それが先生の奥さんだと紹介された時には大変驚きました。でも、体は子供にしか見えないのに、とても大人びた顔をしているのです。
 そしてとても美しい人でした。あの人をひと目見たら、二度と忘れられないでしょう…象牙のような色白の美しい頬に、切れ長の瞼、何もかも見透かすような漆黒の瞳、薄い唇は花びらのようで、広い額にかかる髪は絹糸のようにつややかで真っ直ぐでした。立ち居振る舞いがとても優雅で、気品がありました。神秘的で、近寄りがたい雰囲気があって、生徒の間でも謎の人でした。
 流れるようなキングスイングリッシュを話し、他にもいろいろな言語を操れるようでした。とても博識な人だったと記憶しています。いつだったか、タイガー先生に、勉強を教えてもらったことがあるのです。先生はよくそうして子供たちの宿題やら悩み相談やらにつき合ってくれたものでした。それが先生でもわからない問題になると、いつも奥さんを呼ぶのです。教えてください、スバルさん、と。
 そう、奥さんの名前はスバルさんでした。いつも柄の黒い扇子を持っていました。これが金属でできているみたいに黒光りするのです。一度、勇気を出してさわらせてくれと言ってみたのですが、危ないから駄目だと言われました。
 とても仲の良いご夫婦でしたよ。先生は、何をしていても、必ず奥さんの姿を確かめて…まるで、ちょっと眼を離すと奥さんが消えてしまうんじゃないかと心配してるみたいでした。奥さんも、そんな先生の気持ちを知ってるのか、いつも、先生の見えるところにいました。人形のように端正な奥さんの顔が、先生と眼が合うととてもやさしく穏やかにほころぶのです。少年のような姿が、恋する少女のようにも、慈愛に満ちた母親のようにも見えるから不思議でした。あまり私たち生徒とは関わりませんでしたが、それでいて気遣いの細やかな人でした。暑い日には冷えた紅茶を振る舞ってくれたりしましたっけ。

 ある時、私は道場に忘れ物をして、取りに戻ったことがありました。夕暮れ時でした。先生の家は道場の隣にあって…ええ、これも二人だけで暮らす小さな家でしたよ。町の他の家と同じ、黒い煉瓦と石瓦で出来ていて、庭にはハーブや季節の花が咲いていました。暮らしぶりですか?あまり細かくは覚えていませんが、華美でもなく質素でもなかったと思います。今考えると、私たちの支払う月謝は決して多くはなかったはずです。他に何か収入があったのでしょうか。
 そう、それで道場に行ったら、歌声が聞こえたんですよ。とても綺麗な声でした。歌っていたのは奥さんでした。日本語だったんだと思います。何の歌だったかまではわかりません。いろんな歌を続けて何曲も歌っていました。
 透きとおるような声が、遠くまで冴え渡っていくようでした。小さく美しい姿で、湖を渡る風に髪をなびかせて、背筋をきりりと伸ばして、…天使とか、精霊とか、そんな言葉が浮かびました。
 庭先では、タイガー先生が芝生に座って、にこにこしながらじっと奥さんを見つめていました。奥さんは先生のために歌っていたんです。夕日が綺麗で、山も森も、空も湖も、歌声も、何もかもが美しくて、そこに、先生と奥さんだけの小さいけれど幸福な世界がありました。私は子供でしたが、なんだか涙が出そうになって、じっと動けずにいたのです。あの光景は今も忘れられません。
 先生の道場にはふた夏通いました。でも、三年目の夏に訪れた時には、道場は無くなっていました。町の人に聞くと、その年の春に引っ越していったそうです。行き先はわかりませんでした。

 これだけならば、何の変哲もない少年時代の思い出話なんですけれどね。実は、今年の始めに私はタイガー先生と再会したのですよ。
 商用でイタリアを訪れまして、そこから船でモロッコに向かいました。その船の甲板で会ったのです。もちろん二十年経っていますから、先生は私がわからなかったようでしたが、名乗ってウィンダミアの道場の話をすると思い出してくれました。小さかったのに立派になってと肩を抱いてくれました。先生はといえば、…何歳ぐらいなのでしょう、少なくとも四十才は越えているはずですが、相変わらずそれよりはお若く見えましたよ。笑うと口元の皺が深くなったのがわかりましたけど、黒くて大きな印象的な瞳はそのままでした。
 その時、船内から………もう一度念を押しますが、どうか私を嘘つきだと思わないでくださいね………奥さんが、二十年前と全く同じ姿で出てきたのです。
 顔も背も、少年のような格好も、何もかも、昔の記憶のままでした。私は驚きのあまり声も出ませんでした。
 奥さんがシンジロウ、と呼びかけて、それで私は先生のファーストネームを思い出しました。すると、タイガー先生は慌てたように、「この人はスバルさんの娘です。そっくりでしょう?」と言いました。そうなんですか、とか何か答えたように思いますが、私は不躾ながら奥さんから目が離せませんでした。母娘なら似ているのはわかりますが、寸分違わないなどということがあるでしょうか?ええ、奥さんの姿ははっきり覚えていますから。
 すると奥さんが、急ににっこり微笑んで、「お父様、早くランチを食べに行きましょう。私おなかがぺこぺこよ」と言って、甘えるように先生の腕にぶらさがりました。その声も、顔つきも、一瞬前までとは別人のようでした。英語もあのキングスイングリッシュではなく、少し日本語訛りの英語です。そして本当に、十才くらいの少女そのもののように、小首を傾げて、小さくスキップして、可愛いらしい声でくすくす笑うのです。奥さんは天性の役者だったとしか思えません。
 なぜ娘ではなく奥さん本人だと言い切れるのかと言いますと、私はこのとおり日本語がわかるからです。それを知らないタイガー先生が、奥さんと日本語で会話した内容が聞こえてしまったのです。先生は、「びっくりしました」と言っていました。「こんなところで昔の知り合いに会うとは思いませんでしたね」と。奥さんは、「船を下りるまでは気をつけよう」と言っていました。そして先生が、「今の演技は可愛かったですよ」というようなことを言ったんですが、奥さんはあの扇子を出して、こっそり先生の脇腹を小突いていました。
 タイガー先生とは下船して別れました。それまで、船の中ではずっと、二人は親子のように振る舞っていました。

 二十年経っても、全く年をとらず、姿が変わらないなどと言うことがあるでしょうか?
 何度も、やはりあれは先生の娘だったのではと考えてみました。でも、どうしても二人が日本語で交わした会話は、そうではないと取れるのです。タイガー先生の奥さんは、本当に天使か妖精だったのでしょうか。
 タイガー先生ですか?とてもお元気でした。…ええ、幸福そうでしたよ。そう思います。見かけは親子のように離れていても、二十年連れ添った、仲の良いご夫婦の姿でした。不思議な話ですけれどもね。

 おや、どうして泣いているのですか?ミスター大神。私は何かいけないことを言ってしまったのでしょうか?
 …それならよいのですが。ええ、私の話はこれでおしまいです。最後まで聞いてくださってありがとうございました。









《了》




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