トリプル・トラップ (3)
人は誰しも、心に闇を抱えているという。
まさか自分にはそんなものはないだろうと思いつつも、安土城の奥で遭遇したもう一人の自分の姿を思えばどきりとする。
新次郎はのろのろと着換えながら、昴Bの言葉の意味を考えていた。
つまりは、三人の昴の誰かが…BではなくAとCのどちらかが…深い心の闇を偏ってスライドされているとでもいうのか…?
そういえば、昴Cは先ほど話したいことがあると言っていた。
思い出した新次郎が、昴Cの姿を求めてシアターの廊下を歩いていると、
「新次郎!」
ひらひらとワンピースの裾を翻して、昴Cのほうから駆け寄って来た。
「あ、昴さん、話っていうのは…」
「その件は後でいい。それよりも、新次郎」
昴Cは、ぺたんと胸に手を当てて、華奢な靴で床を踏みしめた。
「マチネの舞台だが…この昴に出演させてもらえないだろうか」
「え…」
「他の二人にも確認したが、君の決断に従うとのことだった」
今、シアターでは丁度『ビバ!ハーレム』の再演がかかっている。今回はプチミントの出番はなく、ルーシー役は昴だけが演じることになっていた。
一瞬、三人公平に一幕ずつ担当するという案を新次郎は思い浮かべた。しかし、先ほどの昴Bの様子を思えば、それは些か困難にも感じられた。
昴Cは、期待と不安の入り交じったような、上気した表情で新次郎を見つめている。
「わかりました…じゃあ、今日の舞台はワンピースの昴さんにお願いします」
新次郎が答えると、昴Cはぱあっと顔を輝かせた。
「そう、か…昴は言った…とても、うれしい…と」
頬を紅潮させ、はにかんだように言う様子は、胸がきゅんとするほど可愛らしかった。
「よかった…昴はもう、君に嫌われたのかと思ったよ」
幾分心許なげに俯く姿に、新次郎は思わず抱きしめたくなるのを堪えた。
「なっ……そんなこと、あるわけないじゃないですか」
断言したが、昴Cはきゅっと唇を結び、拗ねた口調で言った。
「だってさっき…君は僕ではなく戦闘服の昴を選んだじゃないか…」
上目遣いに軽く睨んだかと思うと、すぐに肩を揺すって笑い声をたてる。
「…ふふ、おかしいな…昴が、昴に嫉妬とはね…とんだ三角関係もあったものだ」
そして、晴れ晴れと新次郎を見上げて言った。
「君に、見ていてほしい…昴の舞台を。他の二人ではなく、この僕の舞台をね」
「あ…はい、それはもう」
「約束だよ」
昴Cは、小指をくるりと新次郎の小指に絡め、指切りげんまん、と小声で歌った。
そのいとけない仕草に、新次郎の胸は文字通りバキュンと撃ち抜かれる。
楽屋入りの時間だから、と再びスカートを翻す昴を、新次郎は阿呆のように緩んだ顔で見送った。
果たして、昴Cの舞台は素晴らしかった。
得てして、昴の舞台は素晴らしい。
そもそも、昴は舞台においても天才の名を欲しいままにする天性の役者である。ジャングルの孔雀、憂鬱なる北欧の王子、可憐な蝶々夫人、どのような役もあらゆる喜怒哀楽も、昴が演じれば鮮やかな精彩を放って生命の息吹を得る。豆電球は星空と化し、綿くずは雪景色となり、マネキンは舞踏会を繰り広げる。
だが、昴Cの演技には、日頃の昴の演技にない何かがあった。
もしくは、日頃の昴の演技にある何かがなかった。
ハーレムに迷い込んだ少女ルーシーの、その不安、戸惑い。驚きと喜び。
その素直さ、率直さ。危ういまでの伸びやかさ。
それはあまりにもささやかで微妙な違いだった。観客も共演者も、どんなに慧眼な演劇評論家でも気づかないかもしれない。日々昴を思い、見つめ続けた新次郎だから故に気づいた差異かもしれず、もしくは、新次郎の気のせいに過ぎないのかもしれない。
それでも、そのあるかなきかの違いは、妙に新次郎を不安にさせた。
いつも、昴の舞台は、どきどきわくわくしながらも、安心して見ていられた。何の心配もなく、物語の世界に浸ることができた。
だが、今日に限って、新次郎は他者には説明しがたい緊張感を、最後まで払拭することができなかった。
「どうだった、新次郎。僕の舞台は」
客出しの仕事が終わって楽屋へ行くと、既にワンピース姿に着換えた昴Cが尋ねてきた。
「あ、はい、素晴らしかったです!」
その点は間違いないので、新次郎は躊躇なく答えた。
「そうだろう」
昴Cは自信たっぷりに頷いた。
「なんだか…いつもより楽しく演じられそうな気がしたんだ。演じていて、とても気持ちがよかった…」
感慨深げに語る昴は、とても幸福そうに見えた。
「すばる!ママのホットケーキ!今度こそ作ってくれるなっ」
リカが、屈託のない笑顔でぱたぱたと駆けてきた。戦闘時に昴Bに叱られたことはもう気にしていないのか、もしくはあれは別の昴だとはっきり認識しているのかもしれない。
「ああ…さっきはリカが出撃してしまったからね」
昴Cは柔らかくリカに微笑みかけた。
「リカ、出撃して疲れているのにすぐ舞台に立って、よく頑張ったね。ご褒美に沢山作ってあげよう」
「うっひょー!ホットケーキたっくさーん!」
ぴょんぴょん飛び跳ねるリカを見ながら、君は元気だねえと昴Cが笑う。
その様子に、新次郎の胸は再びもやもやと緊張した。
確かに、昴はレボリューション以後、年少のリカには随分とやさしくなった。だが、こんなにも闇雲に甘かっただろうか…?例えば重要な局面では、今朝の昴Bのように、リカが相手でも厳しい態度を取ることもあったはずだ。
やはり厳しさは昴Bに、やさしさは昴Cにと分配されてしまったのだろうか。
ふと、昴Cが顔を近づけ、リカに聞こえないように囁いた。
「新次郎、後で夕食を一緒に…どうだい」
デートの誘いのようでどきまぎとする。しかし、新次郎もまた昴Cともっと話してみたかった。
「わかりました」
同じく小声で答えると、昴Cはうれしそうに微笑み、そのままリカに引っ張られていった。
「ねえ、新次郎、言っていいかい」
着替えを終えたサジータが、いつのまにか背後に立っていた。
そして、新次郎が認めたくなかったことを、ずばりと言い切った。
「なんか気持ち悪いんだけど。昴ってあんなに愛想良しで感情表現があけすけなやつだったっけ?」
新次郎は昴Aの姿を探していた。
まだ一度もちゃんと昴Aと話せていなかったからだ。
ロビーで見かけたラチェットに問うと、
「霊力測定の後は見てないわ。ちなみに、結果は三人とも異常なしよ」
と告げられた。
うーむ、と唸ったところで、キャメラトロンの存在を思い出す。昴のキャメラトロンは、昴Aのスーツのポケットに入っているはずだ。
コールしてしばらく待つと、昴Aが出た。
「昴さん、今どこにいますか」
「…屋上だよ」
「今から行ってもいいですか」
「…好きにすれば」
気のない声が返ってくる。
エレベーターで屋上に向かいながら、新次郎は思案した。
クールな昴、とサニーサイドが表現した昴A。ミステリアスで謎めいている、日頃一番見慣れた昴。だがそれは同時に、時々ひやりと孤独を感じさせる、危うい昴なのではないか…?
昴Cは、昴Bの警告した心の闇を持っているようには見えない。だとしたら…。
チン、とベルの音を鳴らしてアコーデオンドアが開くと、手すりに肘を乗せて風に吹かれている昴Aの背中が目に入った。
昼下がりの穏やかな日差しの中でも、その姿はやけに淋しげに見えた。昴Aが今にも手すりを越えてどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと、新次郎は案じた。
「昴さん」
傍らに新次郎が並んでも、昴Aは振り向かない。
「あの…少し話してもいいですか」
「…駄目だと言っても話すんだろう」
視線をぼんやりとタイムズスクエアの街並みに向けたまま、皮肉っぽく答えるだけだ。
新次郎は困惑し、話題のとっかかりを探した。
「ええと…昴さんは、他の昴さんたちをどう思いますか」
昴Aは暫し鉄扇をひらひらとそよがせていたが、やがてつまらなそうに口を開いた。
「昴は答える…鬱陶しい昴たちだ、と」
「鬱陶しい…?」
「いや…滑稽と言い換えようか。随分と一生懸命なようで見苦しいことこの上ない。どんなに悪あがきしようとも、昴などちっぽけな昴に過ぎないというのに、ね…」
自らを見下すような口調に、新次郎は違和感を覚えた。
「そんな言い方、昴さんらしくないです。昴さんはもっと誇り高い人じゃないですか」
「誇り…?ふふ…昴の誇りは、激しい自己嫌悪の裏返しだよ」
自嘲気味に、昴Aはくすりと笑った。
「昴は昴が嫌いだ…早く…いなくなってしまいたい」
「え…」
思いがけない言葉に、新次郎は己の耳を疑った。
「昴は、消えてしまいたいんだ。戦うのも、歌い踊るのも、もう充分だ。君のお陰で、はからずも 満ち足りた時間を過ごすことができたけど、…もう、いい」
渇いた声で、昴が綴る。
「昴の体は、他者と長く過ごすようにはできていない。取り返しがつかなくなる前に、こんな昴は消えた方がいいんだ…」
(自分が存在した痕跡を、残したくないんだ…)
(いないよ…誰もいない。そうなるように生きてきた)
かつて昴の漏らした、喪失を予感させる悲しい言葉を思い出し、新次郎の胸中がにわかにざわめいた。
「そんなこと、言わないでください!」
新次郎は叫んだ。
「昴さんがいなくなるなんて、ぼくはいやです!」
逃がすまいとするように伸ばした手を、しかし昴Aはするりと躱した。
そして、虚ろな声で言った。
「君の愛など欲しくない」
新次郎は言葉を失った。
「そうだ、君が悪いんだ」
ゆらりと手を持ち上げ、鉄扇を新次郎につきつける。
「昴が消えれば、君が悲しむ。そう思うから、昴は消えることができない」
その漆黒の瞳は、夜空に穿たれた孔のような常闇を湛えていた。生者に仇なす幽鬼のように、ひたり、ひたりと昴Aが詰め寄る。
「君が邪魔なんだ」
新次郎は押されるようによろよろと退き、気づけばエレベーターに後ろ向きのまま踏み込んでいた。
そのままドアが閉じて、エレベーターが下降しはじめても、新次郎は衝撃のあまり茫然自失の体だった。
だから、新次郎は聞くことはなかった。
「これでいい、新次郎…」
眦に涙を浮かべ、一人残された昴Aが呟いた言葉を。
「昴は、君に愛されるにふさわしくない…」
うまくいかない愛は、容易に恨みへと変化する。巷に溢れる恋物語はそう語っている。
だが、まさか昴の口からあのような言葉を聞こうとは思わなかった。
新次郎は無意識に頭を抱え、ぎりと髪を握りしめた。
いったい昴Aに何が起きたのか。昴Aは、どんな昴なのか。
やはり、昴Aが心の闇を一手に引き受けてしまっているのだろうか…?
混乱する新次郎を乗せたエレベーターが、止まって再びドアを開けたのは、地下の格納庫だった。
グリーンの繋ぎのメカニックたちの間に王の姿を見つけ、新次郎は縺れるような足取りで駆け寄った。
「王先生…!」
「どうなされたのかな、新次郎殿」
新次郎の必死の形相に、王の顔が怪訝そうに曇る。
「聞いてください、王先生。昴さんたちが、なんだかおかしいんです」
小柄な王にすがるようにして、新次郎は訴えた。
「最初にランダムスターから現れた時は、三人の昴さんはまったく同じに見えました。でも、…なんだか、どんどん違いが目立ってくるみたいに感じられて…」
王は顎髭をつまんで暫し黙考し、推し量るように口を開いた。
「成る程…人格というのは、互いに抑制しあっているものですからな」
「どういうことですか」
「例えば、新次郎殿でしたら、今日は仕事を休んで寝ていたいと思う怠惰な新次郎殿と、いやいやそれはいけないきちんと仕事に行かねばと思う真面目な新次郎殿がいるとします。それが、別々の二人の新次郎殿になってしまったとしたらどうでしょう。諫める己がなければ、怠惰な新次郎殿は怠け続けることになるでしょう」
「つまり…今の昴さんたちが、そうだと…?」
「抑制の外れた三つの人格が、時間がたつほどにエスカレートしていくというのは、可能性として考えられます」
「そんな…」
新次郎が真っ先に心配したのは、昴Aだった。
消えたいと言った昴A。
その心がどんどん強くなれば、あのまま本当にどこかへ消えてしまうのでは。
新次郎は身を翻し、急いで屋上へ戻ろうとした。
たとえ憎まれているとしても、昴を失うわけにはいかなかった。
(お願いです、昴さん、どこへも行かないで。消えてしまわないで)
エレベーターの上昇速度は、こんなに遅かっただろうか。焦燥に胸を灼かれながら、新次郎はひたすらに祈った。
果たして、ようやく屋上で開いたドアの向こうから、とんでもない光景が視界に飛び込んできた。
鉄扇で斬りかかる、戦闘服姿の昴。
それを鉄扇で跳ね返す、スーツ姿の昴。
キン、と甲高い金属音が鼓膜を刺した。
どちらも本気の気迫だった。
「昴さん!何をしてるんですか!」
叫ぶと、戦闘服の昴が振り向いた。
「昴に、近づくな」
その瞳には、狂気に近い殺意が宿っていた。
「昴以外のすべての昴を殲滅する!」
心の闇は、他でもない昴B当人のものだったのか。
愕然とする新次郎を捨て置いて、昴Bが振りかぶった。鉄扇の羽が空を切る。昴Aの喉を目がけて。
昴Aの鉄扇が、応戦するために動いた。
だが、ふいに、昴Aは手を止めた。
まさに、その喉に鉄扇を迎え入れるかのように、首をもたげて静止した。
「昴さん!」
新次郎がその白い腿にタックルして昴Aを押し倒したので、昴Bの鉄扇は喉を逸れて空振りした。
「やめてください昴さん!」
体の下に昴Aを庇いながら、瞳に力を込めて射貫くと、昴Bはまるで自分が新次郎に斬り殺されたかのような顔をした。
くっ、と悔しげな呻きを漏らし、戦闘服の燕尾を翻して、昴Bは駆け去った。
「昴さん、何やってるんですか!死ぬつもりですか!」
新次郎は昴Aの肩をぐらぐらと揺さぶった。
「うん…それもいいかと思ったんだけどね…消えるのに手間が省けるし」
裏返りそうな声で、新次郎は思わず叫んだ。
「馬鹿なことを言わないでください!」
「ああ、馬鹿な考えだった」
昴Aは、昴Bの去ったエレベーターのドアを見やりながら、ぞっとするほどの暗い声で呟いた。
「他の二人を残して消えるわけにはいかない。消えるなら、彼らを始末してからだ」
新次郎は奈落に突き落とされたような気がした。
昴が三人に分裂してまだ半日かそこらだというのに。
狂える三人の昴が出来上がりつつある。
とにかく、昴Bを止めなければ。
このままでは、昴どうしの殺し合いが起きてしまう。
「昴さん、昴さんのことは、ぼくが必ずなんとかします!だから、早まらないでくださいね!お願いですから!」
強く肩を掴んで言い置くと、新次郎は昴Bの後を追った。
《続く》
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