前夜(昴編)






 脚は、新次郎の手のぬくもりを覚えていた。
 肌が、新次郎の手を欲している。
 だが、その身にふれるのは、無機質で冷たいシーツの織り目だけだった。
 昴は仕方なく、代わりに自分の手のひらを腿に置いた。



 深夜の自室のベッドの中で、月明かりだけを浴びながら、昴はシーツにくるまって天井を見つめていた。

 眠りに落ちる前の、孤独なひと時、夜ごとに忍び寄る誘惑。抗えなくなったのは、いつ頃からだったろうか。今やそれは、まるでナイトキャップをたしなむがごとき気安さで、昴の夜に取り憑いていた。
 得られるのは虚しさだけだと咎める理性やプライドが、勝利することもあったが、まれだった。ましてや、今宵は新次郎の手の感触の、生々しい記憶があるのだ。勝ち目のない戦いに挑むのをはなから諦め、昴は眼を閉じ、夢想に身を投じた。

 日中、ソファに並んで蒸気テレビを見ていた時の、新次郎の行動を思い返す。
 あなたがほしい。
 そう唱えた、熱く低く籠もった声。
 抱きしめられた腕の、たくましさ。その強さ。
 そのまま、頷いて、この身を任せることが出来たら、どんなによかっただろう。
 あんなに手ひどく拒絶するのではなく。この手で抱きしめ返すことができたなら。


 昴に伸びる新次郎の手。頬を包み、引き寄せ、組み木を合わせるように深く結ばれる唇。
 口の中で舌を動かすと、歯に擦れてくすぐったい。ああ、これが新次郎の舌だったら…?
 想像するだけで、昴は軽い目眩をおぼえた。
 幻の新次郎を抱きかかえた腕は空虚だ。昴はシーツをまるめ、枕を巻き込み、腕いっぱいに抱えた。
 なのに、重さが足りない。新次郎の重みに焦がれて、昴は狂おしくシーツの塊を抱きしめるばかりだった。のしかかられ、押しつぶされたい。敷布に埋め込まれるほどに。息が詰まるほどに、新次郎の全身を感じたい。
 新次郎の肌の温度は。その感触は。いつか病室で垣間見た肩や胸のラインをまざまざと思い起こす。それが昴に迫る。昴を捕らえ、すっぽりと包み込む。

 降りかかる熱い吐息。滑るように動く唇。新次郎の手が昴の体中を撫でる。少女のような顔に似合わぬ、男らしく太い指。剣修行で少し荒れた手のひらの硬い皮膚。自分で肌を撫でると、さらさらと音がした。きっと彼の手はもっとあたたかい。そして、緊張と興奮で少しだけ汗ばんでいる。
 新次郎はどんなふうに昴の胸にふれるだろう。撫でまわすのか、指で摘むのか…。己の指先で擦りながら転がすと、胸の先が固くなってくるのと同時に、じんわりと耳のあたりが熱くなる。ああ、それより、新次郎の口はどうだろう。新次郎の口に含まれたい。
 指を二本咥えて舐め、湿らせてから、胸の先を摘んでみる。だが、ぬるりとした感触は冷たい揮発感とともにすぐに消えてしまった。虚しさが、隙を突いて攻撃をしかけてくる。こんなもので、代用などできないのだ…。だが、昴は防壁を固くし、想像を続けた。
 新次郎の口を被せられたら、どんなに熱いだろう。彼の舌で擦られたら。強く吸われたら…。
「あ…」
 思わず声が漏れてしまい、それが妙に大きく聞こえて、昴は自分でおののいた。
 だが、眼を開けても、暗い部屋には月明かりが差し込むだけ。誰も、見咎めるものも聞き耳を立てるものもいない。
 昴は安堵とともに腹を決め、惜しみなく声を零した。
「…あぁ…んっ…新次郎…」
 きっと溶けてしまう。熱くぬめった新次郎の口の中で、蜜のように飲まれてしまう。
 幻の新次郎の口を胸に感じるほどに、痛みにも似た甘い感覚が、心臓の鼓動とともに体に走る。それは漏斗で集めるように下腹部に注がれ、やがてぎくしゃくと軋むように腰が動き始める。
 脚の奥の、熱と痺れ。己の体に、こんな感覚があるとは、知らなかった…知らなければ幸福だったろうか…それとも…。恐れながら、指を忍ばせる。昴の、ここに、新次郎がふれたら…。
「あ…駄目だ…新次郎…っ」
 唇から飛び出した芝居がかった声に、かあっと頬に血が昇る。
 それでも、潤んだ体は、我に返ることを許さない。ここまで来て後戻りはできない。肝心なのはこれからなのだ。つま先をきつく折り曲げ、意識を集中し、淋しさにひくつく部分を、新次郎の代わりに愛してやる。
 ここを、新次郎に知られる。新次郎に探られる。くすぐるような指の動きを、徐々に強くしていった。底部を押し上げるように揺さぶると、目指すささやかな高台が見えてくる。
 後はもう、何も具象的な想像はいらない。

 ただ、新次郎を思う。
 昴さん、と呼ぶ声。
 見つめる瞳。
 新次郎の笑顔。
 新次郎の体温。
 新次郎の吐息。
 新次郎。
 新次郎。
 新次郎。
「新次郎…っ!」


 指の隙間から逃げ去った快楽はわずかで、疲労と、ひりつく痛みのほうが、多く昴に残された。







 待ち構えた自尊心が、容赦なく昴を責め詰る。
 完璧なる天才、孤高の貴人、九条昴ともあろうものが。
 なんとあさましい、さもしい、恥知らずな、淫らな…。


 そして、なんと愚かな。
 こんな後ろ暗い手段に頼らずとも。
 ただ、新次郎の求めに、応じればいい。

 ああ、新次郎、僕も、ずっと君がほしかった。君に抱かれたかったんだ。
 さあ、昴を………。







 駄目だ。



 彼に失望されるのが怖い。
 彼を失うのが怖い。

 性別を明かさず、年齢を隠し、そうしてこの時間の止まった小さな体に存在意義と力を備えて来た。
 なのに、恋を知った途端に、それは威力をなくし、価値を見失い、ちっぽけな頼りないものになってしまった。今や不釣り合いに貪欲な欲望と、破滅への恐怖の狭間で悶えるばかりだ。


 服の上からでも、充分に昴の体型はわかるだろう。起伏の乏しい、子供のような、無性の体。新次郎とて、承知の上で求めてくれているに違いない。
 だが、もし。
 もし、万に一つでも。昴の体を見た新次郎の瞳に、影がよぎったら。
 失望、諦め、幻滅、憐れみ、慰めや、譲歩…。
 わずかにでもそんなものを見つけてしまったなら。

 この厄介なプライドが、血を流し、怒り狂い、それを許しはしないだろう。
 その時、新次郎を傷つけずに済むだろうか。新次郎の命を、奪わずにいられるだろうか…。




 月明かりの中、熱を持った体が、冷え冷えと冴えていく。

 やはり、駄目だ。
 危険を冒すわけにはいかない。
 この体が、心が、どんなに新次郎を求めていても。

 このまま、彼の愛をはぐらかし、欲望を躱し、精神の高みを唱え続ける。
 そうすれば、少なくとも、己の神秘性は保たれるだろう。
 新次郎に憎まれようとも、恨まれようとも。
 憐れまれるよりは、余程ましというもの。



 こんなにも昴を脅かす彼が恨めしかった。
 このまま、永遠に虚しく己を慰め続けるしかないのだ。

 身を守るように、シーツをきつく体に巻き付け、昴は寒々と広い寝台に、一人きりでいた。













 楽屋で、一人台本を読んでいると、新次郎が入って来た。
 常日頃なら、お疲れ様です、とにこやかに挨拶する彼も、昨日の今日では気まずいらしく、もぐもぐと口ごもって視線を反らせた。
 なのに、雑用を終えても、新次郎は去ろうとしない。
 背中を向けた昴の後ろ姿を、魅入られたように見つめて、立ち尽くしている。



 彼の心に浮かぶ欲望は、手に取るようにわかった。
 愚直なほどに、己を偽ることを知らない、正直すぎる新次郎。楽屋中の鏡という鏡が、君を映しているというのに。
 そんなにもあからさまに、己の感情を発散させるとは。いっそうらやましいくらいだ。
「…未熟だな、大河新次郎」
 彼の手が伸びる前に、昴は動いていた。

 低く下げた頭を上げた時には、もう新次郎に近接していた。素早く抜いた鉄扇の先で、顎を持ち上げる。
「君の考えていることなど、お見通しだよ」
 彼の欲望を挫くために、余裕の笑みを浮かべて告げる。


 虚を突かれ、まるく見開いた新次郎の瞳が、ふと、黒く重くなったように見えた。


 一瞬、昴は幻を見た。

 豹変し、獣のように襲いかかる新次郎。
 手首を束ね押さえる力、足を割り開く膝。
 あらわにされた肌に、降り落ちる、熱い唇…。




「…新次郎?」
 問いかけると、新次郎がはっと息を呑んだ。
「なんでもありません」
 答える笑顔は、いつもの穏やかな彼だ。子犬のような愛くるしい瞳。やわらかな口元。
 昴は安堵し、そっと緊張を解いた。
「そうか…では、お先に失礼するよ」
「はい、お気をつけて…また明日」
 とってつけたちぐはぐな会話に隠れるようにして、昴はドアに向かった。



 もし、本当に新次郎がその力をふるった時に。
 果たして、自分はどこまで抵抗できるだろうか…?
 物理的な意味だけでなく。己の内にある欲望に負けて、この身を委ねてしまうのでは…。

 くよくよと不安に思い悩むのは、時間の無駄に思えた。

 若輩の彼に、昴の葛藤を悟れと望んでも無理だろう。ならば、ここは自らが恐れを克服するしかない。
 新次郎を信じて、彼の方へ一歩踏み出せば…。
 だが、もし、その結果、互いに傷つけ合い、何もかも失ってしまったら…。



 根強い警戒心と慎重さが、結局昴を引き留めた。
 失ってから後悔しても、遅いのだ。
 今は、この危うい関係を守りおおせることのほうが。




 背中を、新次郎の瞳が追いかけてくるような気がして、昴は自ずと足を速めた。  






《了》












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